私が信仰というものに本格的に見切りをつけたのは、 複数の宗教も違う信仰者らに対して 「神が誰かを殺せと命じたら、君は殺すのか?」 と尋ねた時に、 彼らの大半が躊躇いも無く「殺す」と答えた事だ。 そして、「それが信仰というものだ」と言った。 神は間違えないし絶対だから、との事だった。
2022-02-15 05:20:05…そこでせめて 「私の信じる神はそんな事を命じたりしない」 といった言葉が返ってくるなら、まだ私も見切りをつけたりはしなかっただろうが、結局、私が訪ねた十数人に関しては、大半が躊躇いなく神の命令を実行すると言い、二人ほどが少し躊躇いを見せたのみだった。まぁ、米国での事ではあるが…
2022-02-15 05:23:51…なんというかな、信仰が根深いところに生きる人間の考え方は、自分の想像を超えていた。 そして、それが信仰だというのなら、信仰というものに違和感を持ち、決してそれを受け入れる事は出来ないと思える自分になっていて良かったと思った。 彼らは信仰が無いと不幸だと言うが、私には逆に思えた。
2022-02-15 05:26:19…信仰が無いと幸せになれないと言う彼らは、私を不幸な人間だと憐れんだが、そうやって他人を憐れんで見せて信仰に依存して生きるしかない、信仰に隷属する人間の姿は、私には全く幸福に見えなかった。 そして、彼らの大半が生活や人間関係に不安を抱えていた。信仰は彼らを救っていなかった。
2022-02-15 05:29:50…これは私の実体験でしかないので、これが世界にある「信仰」というものの平均的な姿だと断言はしないが、「信仰があって当たり前」みたいな認識の社会の中に、ああいう発想に根差した「信仰」が息づいていると認識した時に、米国生活で感じた不思議について、色々と腑に落ちる事は多かった。
2022-02-15 05:44:58日本人と違う神に対する考え
@takuramix 仰ることはもっともと思いつつ、この差はユダヤ教やキリスト教などの神様と日本における神様の違いが大きいのではないかと思うのです。 あちらの神様って絶対正義ですよね。だから神の理不尽の理由を考えることが学問になったりする。 日本人の考える神様ってそこまで完全じゃない。
2022-02-15 09:26:23@takuramix 神様が怒ったら、とりあえず宥めておだてて怒りを沈めるのが日本式。それには正当な理由が有り、それに気づかなかった自分が悪いと反省するのがキリスト教的ってところでしょうか。 ギリシャやローマの神様たちを信奉する人たちがいればまた違ったかもしれないですけど。
2022-02-15 09:32:46@toshi_moto 仰る通りです。そうした緩い信仰の在り方を説明すると、彼らは「それは信仰ではない」と言い、こちらの信仰の在り方を一切認めないのです。 昔の日本では彼らの言うような「信仰」が一般にあったと思われる記録も見られるので、日本はいかにして信仰の呪縛を逃れたのか?も興味深く思うところです。
2022-02-15 15:53:33@takuramix 「それは信仰ではない」ですか、確かに…(笑)。 現在の日本人の場合は信仰を正しさの絶対基準に置いていない。宗教はその指標の一つに過ぎないってことですよね。案外、日本人の正しさは絶対基準を持たず、複数の指標の集合体なのかもしれません。世間体なんかも含めて。
2022-02-15 18:38:50@takuramix 「不合理ゆえに我信ず」という言葉を思い出しました…。私が信仰を持てない理由はタクラミックスさんと同様です。
2022-02-15 09:04:07@takuramix これですね わかります (わかりません) _(┐「ε:)_ pic.twitter.com/e1gJslvkbw
2022-02-15 10:55:20