精神分析とは何か?
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僕も同じようにフロアにいてました。ケースについて検討や考察に対する議論がほとんどなく、やり方や技法への非難に終始したように思います。もっとケースをどのように理解したのかの発言が欲しかったですね。RT @rairaikokia @osake_kushami
2011-09-06 23:01:59フロイトの時代から現在まで、1930-60年代の米国という幸福な例外を除いて精神分析は常に偏見に晒されてきました。それでも私たちが精神分析を学び実践するのは、それが心の真実に到達する数少ない手段だと知っているからです。証明は患者と歴史とに委ねましょう。 @rairaikokia
2011-09-06 23:29:28僕は精神分析をオリエンテーションとするということは常に精神分析的に物事を考えることを意味すると思ってます。例え別の技法を使っていたとしても。けどこれは自身が分析を少しでも受けることと不可分だと思います。 RT @kazeatume 精神科外来で仕事をしていた時は、全く関心なかった
2011-09-07 07:47:03そういう意味では僕の発表は逆転移をタイトルに挙げてますが、厳密に精神分析を施行した事例ではありません。感想は、技法ややり方の指摘をした人もいましたが、概ね事例理解について議論できたかなと思います。座長のマネジメントも良かったですし。 RT @kazeatume 発表いかがでした?
2011-09-07 07:52:25RT @kazeatume: @purely1856 私も精神科外来で仕事をしていた時は、全く関心なかったですよ(笑)家族療法への関心も薄かったし。ただ、児童福祉領域だとケースワークを整えておかないと、「消毒しないまま傷を縫う」ようなことになり、縫った傷の中が膿んでしまうみたいに、よくならないんですよねえ。
2011-09-07 08:58:11恐らく批判者は精神分析の技法が「不自然」であることが道徳的に気にいらないのでは。先日のケイパーではないですが道徳感に支配されるとしばしば臨床家の目は曇ります。外科手術が代表ですが臨床とは本来不自然な行為であるとの認識が大切です。 @purely1856 @rairaikokia
2011-09-07 10:35:20精神分析は、訓練分析を含む訓練を受け、精神分析設定による統制分析を実施しなければ理解できないということのようなので、一般に啓蒙すべきではなく、精神分析協会とか精神分析学会のみで議論しなければ危険ですらあるということにならないかな。半端に使うと危ないと言われる訳なので。
2011-09-07 11:07:46実際、ある高名な先生のツイートに、精神分析についてしゃべる、講義をするが、こんなことに意味があるのだろうか?という趣旨の発言があった。ご自身のお考えに従うなら、全く意味がないからおやめになったらいいと思う。
2011-09-07 11:11:06結局、精神分析ってなんだろうか?この疑問から出発して、私は臨床を根底から問い直すしかなくなっている。現職はその場所にふさわしい。人が育つには何が必要か?誰もこの問いに完全には答えられない。被虐待児は傷つけられ、奪われ、与えられず、従って育ち損なう。では、何が与えられるべきか?
2011-09-07 11:16:57傷ついた子どもに何が与えられるべきか?栄養があり、おいしい食べ物、それを差し出す手のあたたかさ、安心して眠れる部屋、心地よい衣服、甘えたり怒ったり泣いたり困らせたり、愛したりする誰か、危険から守り、間違いを叱ってくれる誰かetc. etc. では、私(心理)の仕事は何か?
2011-09-07 11:21:51心理士は何を与えるのか?そもそも「与える」のか?もう一度、私は私に問う。なぜ私は時間を決め、部屋を決め、そこでしか会わないのか?なぜ食べ物を与えないのか?身体的な接触を積極的に用いないのか?私がしないことを全て必要とする、施設の子を前にして。kazeatumeこの問いに答えよ。
2011-09-07 11:27:12@purely1856 @rairaikokia 以前F山先生が外科手術を例に挙げていたのを思い出しました。この部分は、私のオリジナルではありませんので念のため。 RT @osake_kushami 外科手術が代表ですが臨床とは本来不自然な行為である
2011-09-07 11:50:52臨床について考えながら、片方で統計的分析を学ぶというのは、確かにばらばらの作業だけれども、どちらも隠れた意味を探りながらストーリーを見いだすという点においては共通してると思う。カテゴリカルデータのSEMを前にしてベイズ推定について思いを馳せる。
2011-09-07 11:55:16ただ非難的な発言をした人の自身のやり方や方法が間違っているとも思わないです。その人の理解と方法があるだけ。その人の文脈の中でこそ生きてくるもので、それを他の人の文脈に適用しようとすると無理があるのだと思います。 RT @osake_kushami @rairaikokia
2011-09-07 12:31:00それは治療モデルに従っていたら、そういうケアすることが大事と思います。精神分析とはそういうモデルや治療観ではないのかもしれません。 RT @kazeatume 傷ついた子どもに何が与えられるべきか?栄養があり、おいしい食べ物、それを差し出す手のあたたかさ、安心して眠れる部屋
2011-09-07 12:35:06@tohreeey @sacrum @purely1856 @obckbs1102ありがとうございます。最近まで、心理療法の作用機序は何か?という疑問に対して、精神分析的な説明で納得できていたのですが、今はわからなくなっています。守、破、離。破で止まったらやだな(笑)
2011-09-07 12:53:22「痛みを見ないためにしていること」が「成長を妨げている」のであり、「痛みを伴う現実を見据える」ことができれば、「見ないためにしていること」は必要なくなる。このモデルなら、外界に働きかける必要はない。「すみなすものはこころなりけり」だ。これは精神分析だ。
2011-09-07 13:03:39措置されていても、措置それ自体や出自がわからないこととか肉親との交流の中で(虐待ではなくなっていても)傷ついたり、歪みを受けることがあるのは明白だ。これは、「すみなすものはこころなりけり」では済まない事態だろう。間違ってないか?これは、ここまでときれいに線を引ける領域ではない。
2011-09-07 13:08:43「いたみとして引き受ける」か外界を変えるのか?健常な大人なら「あなた自身に外界に働き変える力があるようだが、そうしない訳はなにか」を分析してよいだろう。しかし、子どもに要求できる範囲は、年齢により変化するだろう。外界は変わることも、変わらないこともある。だから線は引けない。
2011-09-07 13:12:48@kazeatume 私にとって精神分析は心のありようを理解する方法であり、その理論です。心は物事をプロセスしていき、それはボラスの言葉で言えば自我過程になるだろうと思っています。精神分析的な援助はこの自我過程がそれ自体の働きを取り戻す事にあてられるのではないかと思っています。
2011-09-07 13:30:45@kazeatume 環境調整と環境を調整する自我の過程と経験を処理する自我の過程の中で、精神分析的な心理療法が担うのは最後の1つであり、身体のケアは最初の1つに関わるのではないかと、その中間に両者のあいまいな境界線として自分で変える力があるのではないかと大まかに考えています。
2011-09-07 13:35:06