日本一の大天狗の実態とは? 英明か無能か、異端の天皇だった後白河法皇

平清盛や源頼朝をも手玉に取る策謀家としてイメージされている後白河法皇ですが、果たしてそのイメージは正しいのかをまとめてみました。
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ヤン・ヒューリック @1xuVLqH3kQ

ちなみに、この日本一の大天狗は高階泰経のことを指しているのか、それとも後白河法皇のことを指しているのか研究者の間でもまだ結論が出ていない代物でもある。 ただ、どっちに向かって発言したにしろ、頼朝が後白河法皇を陰謀家と認識していたとは言えないのである。

2022-03-09 15:41:25
ヤン・ヒューリック @1xuVLqH3kQ

また、後白河法皇は基本的に深謀遠慮の人ではなく、目先のことだけしか見えず、その場しのぎでしのごうとして失敗する軽率な人物でもある。 その一例が、木曽義仲と対立して合戦した法住寺合戦。

2022-03-09 15:42:59
ヤン・ヒューリック @1xuVLqH3kQ

北陸から平家を蹴散らして、都に上洛して平家を都落ちさせた木曽義仲だったが、この時期は大飢饉が起きており、兵糧が欠乏していた。 その結果、京の治安は急激に悪化しており、義仲の部下たちまで略奪に走っていたほどだった。

2022-03-09 15:44:35
ヤン・ヒューリック @1xuVLqH3kQ

この平家の都落ちで、高倉天皇の遺児であった安徳天皇も平家と一緒に都落ちしていた。 そうした中で、義仲は平家打倒を唱えた以仁王を功労者としており、その遺児である北陸宮を推薦する。 当然だが、親王ですらなかった以仁王の遺児が即位できるわけがない。

2022-03-09 16:04:15
ヤン・ヒューリック @1xuVLqH3kQ

そして、義仲にしてもそんな上奏ができる身分ですらない。最終的に安徳天皇の代わりに同じく高倉天皇の子であった四ノ宮、後の後鳥羽上皇が即位した。 ここで、義仲と後白河法皇との間に一つの亀裂が入ってしまう。

2022-03-09 16:06:36
ヤン・ヒューリック @1xuVLqH3kQ

この一件に関しては後白河法皇よりも、むしろ義仲に非があり、九条兼実は「王者の沙汰に至りては、人臣の最にあらず」と愚痴ったほどである。 そして、京の治安は一向に回復していなかったし、後白河法皇は義仲に平家追討を命じた。

2022-03-09 16:10:21
ヤン・ヒューリック @1xuVLqH3kQ

それに入れ替わる形で関東に派遣されていた中原康定が帰京し、頼朝は「平家横領の神社仏寺領の本社への返還」「平家横領の院宮諸家領の本主への返還」「降伏者は斬罪にしない」という提案を伝えていた。 義仲とは対照的に頼朝は朝廷に対して魅力ある提案を出してきたのである。

2022-03-09 16:11:58
ヤン・ヒューリック @1xuVLqH3kQ

これに気分を良くしたのか、後白河法皇は朝敵だった頼朝を教免して、右兵衛佐に復帰し、東海・東山両道の支配権すら認めた。 が、一方で義仲の勢力圏である上野と信濃、北陸は除いていた。一方で頼朝は義仲が台頭するのが面白くないので、義仲排除を求めていた。

2022-03-09 16:16:46
ヤン・ヒューリック @1xuVLqH3kQ

そして、義仲だが平家追討に向かうも、水島に戦いで惨敗してしまう。 この時に頼朝の弟である義経・範頼が大軍を率いて上洛するというとんでもない情報が飛んできた。 慌てた義仲は速攻で京に戻ってきた。

2022-03-09 16:19:47
ヤン・ヒューリック @1xuVLqH3kQ

義仲は後白河法皇に頼朝の上洛を促し、宣旨を下したことを無茶苦茶抗議して、逆に追討の宣旨を出すように要求した。ところが、後白河法皇は頼朝軍が上洛することから強気になり、要求を拒絶する。

2022-03-09 16:23:21
ヤン・ヒューリック @1xuVLqH3kQ

ここで義経が美濃の不破の関まで到達したという知らせが届く。さらに強気になった後白河法皇は延暦寺と園城寺に協力を取り付け、僧兵やゴロツキまで集め、院御所である法住寺に堀や柵を巡らせていた。 しまいには摂津源氏の多田行綱、美濃源氏の源光長も味方になった。

2022-03-09 16:26:12
ヤン・ヒューリック @1xuVLqH3kQ

そして、後白河法皇は義仲に「今すぐ平家を追討して西下しろ! 京に逗留するなら謀反人とみなす」と最後通牒を出した。 一方で、義仲は「義経の軍勢が少数だったら上洛してもい」と妥協案を出していた。

2022-03-09 16:27:57
ヤン・ヒューリック @1xuVLqH3kQ

そして義仲は「君に背くつもりは全くない。頼朝軍が入京すれば戦わざるを得ないが、入京しないのであれば西国に下向する」と返答してた。これに九条兼実は「義仲の申状は穏便なものであり、院中の御用心は法に過ぎ、王者の行いではない」として、義仲に同情している。

2022-03-09 16:28:55
ヤン・ヒューリック @1xuVLqH3kQ

ちなみに、この時院近習の中で最も好戦的で主戦派だったのが、鼓判官こと平知康であった。知康は伊勢大神宮の託宣を受けたというほどである。 一方で、義仲と仲たがいしていた源行家はこの状況で平家追討と称して京から逃げたのだが、この時正しかったのは行家の方だった。

2022-03-09 16:43:58
ヤン・ヒューリック @1xuVLqH3kQ

こうして互いに険悪な状態になった義仲と後白河法皇はついに激突する。結果、義仲が半日で後白河法皇の軍勢をコテンパンにぶちのめし、法皇は幽閉されてしまったのである。

2022-03-09 16:45:50
ヤン・ヒューリック @1xuVLqH3kQ

平家に一度惨敗したとはいえ、仮にも俱利伽羅峠の戦いから平家を撃破して上洛し、平家を都落ちさせた義仲は無茶苦茶強かった。 対して、後白河法皇はこの法住寺合戦の指揮官をお気に入りの部下である平知康に任せてしまった。

2022-03-09 16:48:44
ヤン・ヒューリック @1xuVLqH3kQ

平知康は鼓の演奏や今様などの芸事に長けてはいたが、軍事に関しては素人も同然である。 おまけに義仲の軍勢は精鋭中の精鋭であり、後白河法皇の軍は摂津や美濃源氏がいるとはいえ、大半が寄せ集めの僧兵とゴロツキの集団である。 勝てる方がおかしい。

2022-03-09 16:50:43
ヤン・ヒューリック @1xuVLqH3kQ

仮にも保元の乱や平治の乱をくぐり抜けてきたのになんだこの体たらくはと思うが、前述したように保元の乱では美福門院を筆頭に、旧鳥羽上皇派の貴族たちがアレコレ差配して、平清盛や源義朝を味方にした。 平治の乱に至っては、後白河法皇が事実上失脚した事件である。

2022-03-09 16:53:58
ヤン・ヒューリック @1xuVLqH3kQ

保元の乱では、美福門院は崇徳上皇よりも強力な軍事力と、官軍というソフトパワーまで利用して、有利な状況を保ったまま戦い勝利した。 後白河法皇は、そんな勝つべくして勝ったやり方を全く学んでもいなければ、理解してもいなかったのである。

2022-03-09 16:56:17
ヤン・ヒューリック @1xuVLqH3kQ

だからこそ、ハッキリ言って軍事的に無能だが、お気に入りの平知康に指揮を取らせ、最悪義経が援軍としてやってくるまで持ちこたえるという戦略も立てていなかった。 保元の乱とは対照的に、負けるべくして負けたのである。

2022-03-09 16:58:40
ヤン・ヒューリック @1xuVLqH3kQ

ここまで延々と描いてきたが要点をまとめる。 1.後白河法皇は場当たり的で無責任 2.後先を全く考えない 3.自分と相手の状況を鑑みて冷静な判断ができない 4.お気に入りならばその仕事に不適切な人物でも重用する 5.過去から学べない人間

2022-03-09 17:01:21
ヤン・ヒューリック @1xuVLqH3kQ

正直、調べれば調べるほど後白河法皇は陰謀家でもなければ策謀家でもない。というか、本人は陰謀家・策謀家であってもそれは非常に子供だましな策を使い、しまいには相手と自分の戦力差を考慮せず、自分が勝てると思っただけで無謀な戦いを決断してしまう。

2022-03-09 17:03:41
ヤン・ヒューリック @1xuVLqH3kQ

端的に言って無能な上に、周囲をひっかきまわして責任は絶対に取らずに迷惑をかける非常にはた迷惑な人物なのだ。普通に暗君である。 天魔の所業と言い訳した頼朝の討伐にしても、結果として頼朝は義経達を追討する名目で「守護地頭」を設置する要求を受け入れる羽目になった。

2022-03-09 17:06:05
ヤン・ヒューリック @1xuVLqH3kQ

そんな後白河法皇が長生きできたことに対して、呉座勇一先生は「生き残れたのは至尊の存在」だったからという身も蓋もないほどに辛辣な評価を下している。 実際、後白河法皇の策謀とやらは全てが場当たり的で、手玉にとっているつもりが逆に手玉に取られ、裏目に出ているからである。

2022-03-09 17:10:44
ヤン・ヒューリック @1xuVLqH3kQ

後白河法皇がずっと治天の君でいられたのも、実は後白河法皇が英明であったわけではない。 これはハッキリ言って悪運が強かったからに他ならない。 そもそも、後白河法皇は二条天皇を即位させるために、本来皇位継承から思いっきり外れた異端の天皇だった。

2022-03-09 17:12:03