日本一の大天狗の実態とは? 英明か無能か、異端の天皇だった後白河法皇

平清盛や源頼朝をも手玉に取る策謀家としてイメージされている後白河法皇ですが、果たしてそのイメージは正しいのかをまとめてみました。
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ヤン・ヒューリック @1xuVLqH3kQ

後白河法皇の実態についてをまとめてみようと思う。 後白河法皇は鳥羽上皇と中宮・藤原璋子の第四皇子であり、兄には崇徳上皇、弟には近衛天皇がいた。

2022-03-09 12:34:49
ヤン・ヒューリック @1xuVLqH3kQ

元々、後白河法皇は皇位継承とは全く無縁で、貴族たちのたしなみである和歌ではなく今様狂いと呼ばれるほど今様にのめりこんでいた。 若い頃には50日も歌い明かしていたほどであり、父である鳥羽上皇からは「即位の器量はない」と見切りをつけられていたほどだった。

2022-03-09 12:38:26
ヤン・ヒューリック @1xuVLqH3kQ

ここで一つの転機が訪れる。鳥羽上皇は崇徳天皇から、後白河法皇の弟である近衛天皇に譲位させた。 崇徳上皇は鳥羽上皇の父である白河法皇が孕ませたという、托卵された子供だったという説がある上に、何より鳥羽上皇は近衛天皇の母であった藤原得子(美福門院)を寵愛していた。

2022-03-09 12:44:19
ヤン・ヒューリック @1xuVLqH3kQ

崇徳上皇は弟に譲位したために治天の君になれず、鳥羽上皇は治天の君として君臨していたのだが、ここで後白河法皇にとっては幸運なことになんと近衛天皇が若くして崩御した。 その結果、鳥羽上皇は自ら「皇位の器量無し」と認識していた後白河法皇を即位させたのである。

2022-03-09 12:46:40
ヤン・ヒューリック @1xuVLqH3kQ

そんな形で弟の代わりに即位した後白河天皇は、29歳という歳で即位することになる。 だが、この即位はハッキリいうと後白河天皇がどうこうというよりも、後白河法皇の息子である守仁親王、後の二条天皇の中継ぎという面が強く、本人の資質などは全く考慮されたわけではなかった。

2022-03-09 12:51:25
ヤン・ヒューリック @1xuVLqH3kQ

こうした中で、出家していた鳥羽法皇が病に倒れてしまう。その権威を盾にして崇徳上皇陣営を抑圧していた鳥羽法皇の側近たちは危機感を持ち、平清盛、源義朝、源義康(後の足利氏の祖先)達と手を組んでこれに対抗しようとした。

2022-03-09 12:55:29
ヤン・ヒューリック @1xuVLqH3kQ

保元の乱と平治の乱に関しては書きすぎるととてもじゃないけとそれだけでやる夫スレが出来てしまうのでかなり端折るが、有力武士を味方につけたことで後白河法皇は保元の乱にも勝利する。 だが、この後で二条天皇の親政派と後白河院政派との間で再び政変が起きてしまう。

2022-03-09 13:02:10
ヤン・ヒューリック @1xuVLqH3kQ

後白河法皇の側近であった藤原信頼は、同じく後白河法皇の側近であった信西入道こと藤原通憲は自害させ、首をさらす。だが、もともと信西憎しで結束していた藤原信頼と二条天皇親政派は空中分解し、平治の乱が勃発した。 その結果、後白河法皇は信西と信頼という二人の側近を失うことになる。

2022-03-09 13:12:06
ヤン・ヒューリック @1xuVLqH3kQ

また、保元の乱で活躍した源義朝ら河内源氏も衰退し、結果として、二条天皇親政派だった平清盛と摂津源氏の長者である源頼政が勝利者になり、後白河法皇の政治力は大幅に低下し、しまいには院政まで停止されてしまった。 そして、これを皮切りに平家が台頭していく。

2022-03-09 13:16:18
ヤン・ヒューリック @1xuVLqH3kQ

平家が台頭していく中で、後白河法皇の息子である二条天皇は自ら親政を行っていった。 元々後白河法皇は二条天皇の中継ぎで天皇になっただけに過ぎないために、貴族たちは二条天皇を支持し、後白河法皇は仏教へとのめりこんでいった。

2022-03-09 14:34:35
ヤン・ヒューリック @1xuVLqH3kQ

ちなみに二条天皇と後白河法皇は非常に不仲であり、後白河法皇は蓮華王院を造営して供養の日に二条天皇の行幸と寺司への功労の賞を望んだが、二条天皇はこれを拒んだ。 また、父である後白河が愚昧扱いされていた中で、二条天皇は今鏡にて「末の世の賢王におはします」と記述されるほど英明だった。

2022-03-09 14:38:06
ヤン・ヒューリック @1xuVLqH3kQ

二条天皇は平清盛や、関白である近衛基実をも従え、文武を掌握しており、事実上の後見人である美福門院の伝手から貴族たちからも支持を得ていた全うな天皇だった。

2022-03-09 14:41:14
ヤン・ヒューリック @1xuVLqH3kQ

一方で父である後白河はもともと父親である鳥羽上皇から不肖の息子扱いされ、自分よりも有能な息子の中継ぎで天皇になった人物である。しかも、芸能に堪能な側近が多い反面、鳥羽院政以来の伝統的貴族や実務官僚との繋がりが無茶苦茶希薄であった。

2022-03-09 14:46:57
ヤン・ヒューリック @1xuVLqH3kQ

このように、共に対極的地位にある二人が親子なのだから仲が良くなるわけもなく、そこに二条派と後白河派の対立もあることから、非常に仲が悪かったのである。 この対立は「孝道には大に背けり」というほどに深刻だったという。

2022-03-09 14:49:55
ヤン・ヒューリック @1xuVLqH3kQ

そして、二条天皇の後見人だった美福門院が亡くなると、後白河法皇は巻き返しを図る。 おまけに後白河法皇が造園した蓮華王院には荘園や所領が寄進されていった。 二条天皇からすれば「アホ親父何やってるんだ!」と言いたくなるわけで、二条天皇が功労しなかったのも無理はない話である。

2022-03-09 14:53:46
ヤン・ヒューリック @1xuVLqH3kQ

そんな苦労が祟ったのか、二条天皇は享年23で逝去してしまった。その後、息子の六条天皇が即位するが、六条天皇もまた夭折してしまった。 こうして、後白河法皇は治天の君に復帰することが出来たのである。

2022-03-09 14:56:05
ヤン・ヒューリック @1xuVLqH3kQ

一旦まとめると 1.後白河法皇はもともと皇太子ですらなかった。 2.父親である鳥羽上皇からも愛想をつかされていた放蕩息子だった。 3.息子の方が有能だから、その中継ぎで天皇になった。 4.息子である二条天皇とも対立関係にあった。 5.結果として、まともな貴族たちとの繋がりが希薄

2022-03-09 14:59:40
ヤン・ヒューリック @1xuVLqH3kQ

ここで結論から言うと、後白河法皇は決して英明な人物ではない。そして、深謀遠慮でもなく、はっきり言って無能な人物だった。

2022-03-09 15:00:58
ヤン・ヒューリック @1xuVLqH3kQ

まず、保元の乱に勝ったのは、別に後白河法皇が優れていたからではない。 保元の乱は美福門院ら崇徳上皇と対立していた鳥羽上皇の近臣たちが報復されることを恐れて平清盛や源義朝を招致し、官軍にすることで崇徳上皇よりも戦力と大義名分で圧倒したから勝ったのである。

2022-03-09 15:04:44
ヤン・ヒューリック @1xuVLqH3kQ

はっきり言って、保元の乱で後白河法皇が勝てたのは美福門院がアレコレと手筈を整えてくれたおかげであった。 そして、後白河法皇がはっきり言って愚昧であったことを露呈させたのが平治の乱である。 もともとこれは、後白河法皇の側近である、信西と藤原信頼の内ゲバから始まっている。

2022-03-09 15:06:20
ヤン・ヒューリック @1xuVLqH3kQ

つまるところ、後白河法皇がしっかりと両者を統率できていなかったから、ここまで滅茶苦茶なことになった上に、後白河法皇はこの戦いで信西と信頼という側近を失い失脚し、二条天皇が親政を行えるようにしてしまったのである。

2022-03-09 15:15:16
ヤン・ヒューリック @1xuVLqH3kQ

源頼朝は後白河法皇を「日本一の大天狗」と評したことから、後白河法皇は頼朝すら苦手とする陰謀家、策謀家として見られることが多い。 だが、ここまでの流れの中で彼が果たして陰謀家、策謀家としての性能と知力があったのかは疑問だらけなのだ。

2022-03-09 15:17:08
ヤン・ヒューリック @1xuVLqH3kQ

実は、この「日本一の大天狗」発言だが、もともとこれは頼朝と敵対することになった源義経と行家が、後白河法皇を脅して頼朝討伐の院宣を書かせたことに対する言い訳を院近臣である高階泰経に書かせた弁解に対する皮肉なのだ。

2022-03-09 15:21:12
ヤン・ヒューリック @1xuVLqH3kQ

後白河法皇は「院宣出さなかったらあいつら(義経達)が宮中で自殺するとか言い出した」と脅されたことを言い訳にしたが同時に院宣を出したのは「天魔の所業」と言ってしまった。 子供が「宇宙人に洗脳された」というような見苦しい言い訳をしたのである。

2022-03-09 15:37:14
ヤン・ヒューリック @1xuVLqH3kQ

仮にも治天の君で九条兼実をして「梁の武帝並み」と言われるほど仏教にのめりこんでいた人物が、天魔の所業という言い訳するのはあまりにも子供じみている。 故に、頼朝は「日本第一の大天狗は余人の事に非ず候か」と皮肉ったわけである。

2022-03-09 15:38:51