榊原孫十郎清政さんのお話

大河ドラマがあまりにあまりなので、 榊原康政さんのお兄さんの清政さんが語る、関ヶ原の裏でのお話。 大久保忠隣さんと本多正信さんの確執の一部を語ってます。
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榊原小平太康政 @sakaki_koheita

昨日、本多佐渡家と大久保家の因縁などについてちょっと話そうと思っていたのですが、結局話せなかったので参上。

2011-09-12 15:14:55
榊原小平太康政 @sakaki_koheita

さて、何から話しましょうかね。本多佐渡守正信殿…というか、弥八郎殿とは私も少々おつきあいがございまして。

2011-09-12 15:27:20
榊原小平太康政 @sakaki_koheita

私が弥八郎殿と最初にお会いしたのは、まだ酒井将監様の元にあった時です。三河一向一揆の時ですねー。弥八郎殿は一向宗側につき、松平元康殿…後の徳川家康公と対立する、元松平家老・酒井将監様の上野城に入られました。

2011-09-12 15:31:14
榊原小平太康政 @sakaki_koheita

この時将監様に献策し、上野城から出陣して矢作川を渡河し、北から岡崎城を攻める作戦だったのですが。これはわりと簡単に岡崎側にバレたらしく…将監様の家中にも、岡崎側に走る者が多数出ましたので、これは仕方のないところなのですが

2011-09-12 15:34:20
榊原小平太康政 @sakaki_koheita

この時、矢作川を渡河する上野城勢を待ち伏せしたのが、石川家成殿と本多平八郎殿、そして榊原小平太でした。私も当然ながら出陣しておりましたので、戦場で弟の姿を見た時にはさすがに胆が冷えましたよ。当時まだ弟は小姓をしておりましたので、前線にいるなんて思わないですよねー

2011-09-12 15:39:07
榊原小平太康政 @sakaki_koheita

さてこの時は上野勢が撃退されて戦いは終わるわけですが。弥八郎殿が戦下手と言われ続けるのは実にこの時が最初だったわけですね。このあと将監様は一度上野城から去ったりしたのですが、後に戻って再度一戦したりしてます。その頃には私も岡崎側についておりましたが…

2011-09-12 15:44:35
榊原小平太康政 @sakaki_koheita

一向一揆終息の際、殿は寛大にも一向宗側についた家臣の罪を不問とする。と決められましたが、この決定については、大久保忠員殿が強くご意見なされたとか。

2011-09-12 15:47:50
榊原小平太康政 @sakaki_koheita

しかしそれでも、岡崎に戻るをよしとしなかった者もおりました。そういう者たちは出奔して他家に仕えることとなりました。有名なところだと、加藤嘉明殿の父上などでしょうかねー。弥八郎殿も、三河を離れて各地を転戦なさったようです。

2011-09-12 15:50:05
榊原小平太康政 @sakaki_koheita

はっきりとした記録は残っていないのですが、加賀一向一揆に参加したとか、長嶋の一向一揆に関与したとか。そしてその時弥八郎殿は、家族を三河に残したままでした。残された奥方と千穂殿…後の本多正純殿を保護したのが、大久保忠員殿です。その息子が大久保忠世殿、孫が忠隣殿になります。

2011-09-12 15:55:01
榊原小平太康政 @sakaki_koheita

そんな弥八郎殿が徳川に戻ってきた時期はやはりはっきりしておりませんが、姉川の戦いから本能寺の変の間であろう、と言われているようですね。大久保忠世殿がご尽力なされて帰参が叶いました。この時期、殿はあちこちから出奔していたり他家にいた三河者を多く呼び戻しています。木俣殿もそうですね。

2011-09-12 15:58:27
榊原小平太康政 @sakaki_koheita

徳川の信州平定の時には、奉行として平岩殿などと協力して旧武田家臣の本領安堵と徳川への取り込みを担当。まぁこの件は徳川の全力をもってあたっていたので、誰が特に活躍したという話ではないんですが、書状が残っていると強いですよね!

2011-09-12 16:03:43
榊原小平太康政 @sakaki_koheita

実際の戦闘では、高天神や長篠や二俣や上田…となかなか苦労する戦いばかりで。

2011-09-12 16:06:48
榊原小平太康政 @sakaki_koheita

弥八郎殿はご自身が出陣することはこの頃はまだなかったように思います。もしかしたらあるかもしれないけれど覚えてません(きっぱり)。私は三郎様のお側におりましたので。

2011-09-12 16:08:28
榊原小平太康政 @sakaki_koheita

その後関東移入の時に、相模国玉縄で1万石拝領しまして、小大名の仲間入りをされました。本格的に活躍しだしたのは、太閤殿下がお亡くなりになったのちのことですね…

2011-09-12 16:11:47
榊原小平太康政 @sakaki_koheita

そのころ…太閤殿下が亡くなられたあとから、関ヶ原前後までの殿のなさりようは、たいていは弥八郎殿の献策と言われているようなんですが…正直、それまでの殿のやり方とはあきらかに違いましたので、それを嫌う家臣も多く。

2011-09-12 16:15:04
榊原小平太康政 @sakaki_koheita

弟などは、宇喜多家騒動で殿と揉めましたしね…。そして第二次上田城戦で、本多佐渡殿と、元々中納言秀忠様の側近であった大久保忠隣殿が対決することになるわけです。

2011-09-12 16:20:15
榊原小平太康政 @sakaki_koheita

なにせ中納言様は初陣であらせられ、家臣がしっかりしていないといけないのに、そのトップが「戦下手」「腸腐れ」「臆病者」と他将から総すかんくってるような者では、まとまるものもまとまりません。

2011-09-12 16:23:30
榊原小平太康政 @sakaki_koheita

弟が「負けるべくして負けた」と言っていたようですが…実際、戦前の会議などは相当にもめたようです

2011-09-12 16:28:01
榊原小平太康政 @sakaki_koheita

。さらに、真田側の挑発にのって最初の戦端を切った者たちが、軍令違反であるとして佐渡守によって厳しく処罰されました。その中には諸将の世子なども含まれており、切腹を申しつけられて出奔する者も出る始末で…

2011-09-12 16:28:07
榊原小平太康政 @sakaki_koheita

戦上手の真田と対陣しているのに、自軍内がこれだけ揉めていては。弟が嘆くのも無理はないです。

2011-09-12 16:29:27
榊原小平太康政 @sakaki_koheita

というような話を大河には全然期待しておりませんでしたが、ちょっとぐらいは知られていないと、新十郎忠隣殿が哀れだなーという。

2011-09-12 16:31:48
榊原小平太康政 @sakaki_koheita

話が途中で申し訳ないですが、時間ぎれのようです。この続きはいずれまたできるといいですが。いつになるかはわかりません。

2011-09-12 16:33:09
榊原小平太康政 @sakaki_koheita

やっぱり話の内容は事前に準備しておくものですよねーといいつついつもその場のノリでやってる兄でした。

2011-09-12 16:34:20

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