2つの「希望」
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RT @tasano: 本日の朝日新聞朝刊に開沼博さんの談話。お題は「フクシマの希望」。次の一言は重い。「中央の人間が一時の熱狂から醒めて去っていった後、最後まで残るのは汚染された土地と補償問題、そこに生きる人々の『日常』です」。「動けないこと」が希望に転じる契機がここにある、と(開沼さんと共に)思う。
2011-09-14 01:17:17開沼さんの「フクシマの希望」が話題になっている。「中央」にいる僕のような人間が、そこに希望を読み込むことは本来は慎むべきだと思っているが(それはたやすく、フクシマを希望として持ち上げるつもりが、切り捨てる議論に接続してしまう)、「希望」には2つの水路がある気がした。
2011-09-14 01:21:03一つはハリー ハルトゥーニアン が『歴史の不穏』で強調していたような、「日常」というのは、直線的な時間軸を志向する近代に対するアンチテーゼとして発見されたという考え方。「日常」には終わりにもはじまりもない。そこには、人々の、途方もなく続く生々しい日々の営みがある。
2011-09-14 01:23:12今年の春に鹿児島の農村を訪ねて思ったが、「日常」は強い。たとえ「中央」の人々が「日本が終わる」とか「日本が再び立ち上がる」とか騒いでいようと、そんなことは関係ないに、ひたすらに自分たちの「日常」を送る。それは、端的に強さとして、肯定していいと思った。
2011-09-14 01:25:10もう一つの「希望」は、西村佳哲さんが『いま、地方で生きるということ』で指摘していたが、日本人が土地に根を降ろして生きる、なんていうのはただの神話だということ。僕たちの祖父世代は満州に移り住んだ人も多かったし、その前の世代ならハワイやブラジルへ移民していた。
2011-09-14 01:28:1150年前でさえも、農村の人は出稼ぎ労働者として日本中を放浪していた場合も多かったし、長男以外はどんどん都会で出てきた。「動きたいけど動けない」というメンタリティは、実は僕たちの祖父世代でも親世代でもなく、「僕たち」特有のものなのかも知れない。
2011-09-14 01:29:51今、地方で生きること。フクシマで生きること。それは実は「地方」とか「フクシマ」としてくくるにも、大きすぎる問題だ。そもそも、それぞれの人のリアリティがあるだろうし、「地方」といっても、コミットするのは「大切な人がいる空間」だったり「大好きな仲間たち」だったり様々だろう。
2011-09-14 01:32:41それが展望がないとか、オルタナティブを示せとか批判する人もいると思うけど、本当に開沼さんが何度も繰り返すように「その現実を見ること」を繰り返していくことにしか、答えはない気がする。
2011-09-14 01:35:01@poe1985 興味深くてずっと読んでいました。一つ放射能、今後世界のあちこちで核災害が起きると人類が住みにくい地球になるので、放射能と環境破壊は非常に心配だなと思いました。放射能は未来世代への加害なので。この産業社会の崩壊と再編が人々の「日常」をどれだけ残してくれるかなと…
2011-09-14 01:44:46@ishikawakz ありがとうございます。ちょっとやそっとでは「日常」が揺るがないというのが、希望であり絶望というか、難しいところですよね。そして産業社会や企業社会や利権と名指されるような構造も、壊れる壊れると言いながら中々壊れはしないですし。
2011-09-14 03:12:14