真田語りをしてみました ②

前回の続き。父・昌幸殿編。
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真田左衛門佐信繁 @s_n1567

前回から間が空いてしまいました。前回までの話し、ご興味ある方は、此方をご参照ください。 真田語り① http://t.co/yxggx0y0 #真田語り

2011-09-16 14:35:13
真田左衛門佐信繁 @s_n1567

今回は前回に引き続き、父・昌幸殿のお話しをしていく訳ですが、上田合戦についても触れていきます。あくまでも、これらは真田方から見た資料を基にお話ししている事を御承知くださいますよう…。#真田語り

2011-09-16 14:40:07
真田左衛門佐信繁 @s_n1567

徳川方から見た合戦の内容・状況は、「三河物語」「岩淵夜話」や「烈祖成績」、その他の資料・書物等でも見る事ができます。一つの出来事も資料によって解釈が様々で、多角的に見る事ができ、色々と面白いかと思います。 #真田語り

2011-09-16 14:41:00
真田左衛門佐信繁 @s_n1567

天正11年、父・昌幸殿は、千曲川の畔に上田城を築城します。通常の城は、山を利用した砦のようになっていましたが、上田城は平地に建てられます。主には防御用の要塞としての機能を重視した造りでした。所謂城下町と呼ばれるものが発展したのは暫く後になってからの事になります。#真田語り

2011-09-16 14:42:15
真田左衛門佐信繁 @s_n1567

この頃は、父・昌幸殿の主家は徳川殿であった為、最初は上田城の築城も徳川殿の対上杉方への防備戦となる城であった為、その築城を容認されていました。上田合戦が始まると、この城は徳川方の対上杉家への防御線から一転、対徳川方との合戦の最前線へと変わります。 #真田語り

2011-09-16 14:45:04
真田左衛門佐信繁 @s_n1567

翌年。中央では、徳川殿と羽柴(後の豊臣)秀吉殿との間に、小牧・長久手の戦いが起こります。長期に渡った戦いの間、徳川殿の信濃への影響力が低下。その間に、信濃に残留させられていた父・昌幸殿は、それを好機として、北条氏と合戦・謀略を用いて信濃内の領土を拡げて行きます。#真田語り

2011-09-16 14:46:59
真田左衛門佐信繁 @s_n1567

やがて、徳川殿と羽柴殿の間に和睦が成され、徳川殿は先にもあった北条氏直殿との和睦条件履行の為、再び甲州に来られて沼田・吾妻領を北条家に引き渡すように迫ります。が、これをまたしても拒否された父・昌幸殿。 #真田語り 

2011-09-16 14:49:53
真田左衛門佐信繁 @s_n1567

その後、父・昌幸殿は羽柴殿とも同盟関係を持っておられる上杉景勝殿へと仕える意思を表明。上杉家に仕えるにあたり、その証を示すよう指示され、私が人質として上杉家に入る事が真田・上杉家で内々に取り決められていました。 #真田語り 

2011-09-16 14:54:25
真田左衛門佐信繁 @s_n1567

沼田領の譲渡を謝絶され、北条殿への面子も潰された徳川殿。水面下で父・昌幸殿に属していた、室賀満正殿に対し、伊那城代の鳥居元忠殿を介して「何とぞ謀略を持って真田を討つべし」という密命を発せられた、と加沢記にあります。しかし、これは事前に父・昌幸殿の諜報に察知され失敗。#真田語り

2011-09-16 14:57:02
真田左衛門佐信繁 @s_n1567

その件を知った徳川殿。ついに武力征伐も止む無し、と徳川譜代の鳥居元忠殿、大久保忠世殿、平岩親吉殿、岡部長盛殿等へ命じ、信濃・上田城へと進軍してきます。この頃上杉景勝殿も援軍として海津城南に兵を出し、徳川方の将・小笠原貞慶殿を牽制してくださいました。 #真田語り 

2011-09-16 14:59:21
真田左衛門佐信繁 @s_n1567

同じく徳川方の小諸城主・依田康国殿は真田方の矢沢城(城主・矢沢頼康殿)と交戦、敗退。それを受けた徳川殿。このままでは、いずれ羽柴殿や上杉殿と全面衝突になり兼ねない為、圧倒的な兵力で短期で決着を付けるべく、「皆殺しが肝要」と言った内容の『真田成敗』を発布されます。 #真田語り 

2011-09-16 15:01:07
真田左衛門佐信繁 @s_n1567

迎え撃つ真田軍。上田城に父・昌幸殿、その北で神川西岸の戸石城(砥石城とも)に兄・信之殿が布陣。上田城の南の丸子城へは丸子平内殿が入り、上田城の東の要害・矢沢城には、矢沢頼康・頼幸殿が守備して川沿いの道から真田本城から上野国北部への連絡を確保した形で布陣しました。 #真田語り

2011-09-16 15:12:05
真田左衛門佐信繁 @s_n1567

対して徳川方の勢力は上田城から千曲川沿いに、東の八重原から西進して、依田川を長瀬河原・猫の背から渡河。その後神川の西、国分寺方面に着陣しました。真田の総勢2000弱に対し、徳川勢7000(一説には一万とも)の両軍が対峙する事になったのです。 #真田語り 

2011-09-16 15:13:06
真田左衛門佐信繁 @s_n1567

まともに戦って勝てる見込みはない為、父・昌幸殿は「手立てを以て防ぐべし」と、最後通告の徳川方に対し数日の猶予を願って焦らし、その間に城下の防備戦を強化します。城下の民達を予め避難させ、人馬の足を止める為に柵を各所に立て、葦の簀を千鳥掛けに張った罠を幾つも作ったり…。#真田語り

2011-09-16 15:14:25
真田左衛門佐信繁 @s_n1567

戦の準備が整うと城内の兵士達に「高砂」を謡わせて徳川方への返事どころか応戦の意志を見せて応え、合戦開始。大軍に対し少数の真田軍は地形の利を活かしてギリギリまで引きつけて狭い場所へと敵を誘いこみ鉄砲で応戦、混乱を招いて徳川軍を攪乱しました。  #真田語り

2011-09-16 15:16:46
真田左衛門佐信繁 @s_n1567

戸石城でも川を堰き止め、時期を見て解放し流れ出た水流を利用して神川で溺死者を多数出しました。徳川方の撤退を阻む様に城下の罠で人馬の進みを遅らせ、避難していた為空いていた町家に火を放ちその煙で撤退の足を止めるなど、あの手この手を用いて色々謀をなさった訳です。 #真田語り

2011-09-16 15:19:00
真田左衛門佐信繁 @s_n1567

やがて被害もさる事ながら、上杉勢の南下による合戦範囲の拡大の可能性もあった事、また、徳川家内でも重臣・石川数正殿の出奔、豊臣方への随従により、軍の再編を余儀なくされ徳川方は上田から撤退し、戦は一旦終結しました。 #真田語り

2011-09-16 15:20:31
真田左衛門佐信繁 @s_n1567

この後、父・昌幸殿は秀吉殿と直接連携を結ぶ事になりました。その辺りの間に、私は上杉家から豊臣家へと人質として移され、後に、秀吉殿の近習の一人として出仕するようになりました。 #真田語り 

2011-09-16 15:21:34
真田左衛門佐信繁 @s_n1567

因みに、徳川軍が来たという知らせを受けた際、父・昌幸殿は城内で家臣の禰津長右衛門殿と碁を打っており、次々と入る戦況の報告にも慌てる事なく、「ぎりぎりまで敵を引きつけよ」と言って、徳川軍が上田城のすぐ近くに来るまで碁を打ち続けたいう話しもあります。 #真田語り

2011-09-16 15:23:19
真田左衛門佐信繁 @s_n1567

徳川殿の従属を望む秀吉殿の関係もあり、秀吉殿は沼田・吾妻領問題の解決を図る為、徳川殿の真田征討を容認する事を示唆し、すわ合戦か…という緊張状態にもなったようですが、結局徳川殿が秀吉殿に従属する事になり、征討は中止となりました。 #真田語り

2011-09-16 15:24:44
真田左衛門佐信繁 @s_n1567

この時、秀吉殿は上杉景勝殿に真田を支援しない様に下知を出し『真田昌幸・表裏比興の者』と断じたのだとか…。ともあれ、徳川殿の帰属によって秀吉殿は中部地方の大名の仕置きに着手され、父・昌幸殿を家康殿の与力大名にする事でこの問題に決着。父・昌幸殿は駿府に出仕されました。 #真田語り

2011-09-16 15:27:03
真田左衛門佐信繁 @s_n1567

この、表裏比興の者…という言葉、後世では賛否両論の意見に割れていますね。表裏一致せぬ者、くわせ者という意味があるのですが、取り様によっては…まあ、その辺りは皆さんの解釈にお任せして話しを進めて参ります。 #真田語り

2011-09-16 15:28:41
真田左衛門佐信繁 @s_n1567

さて…。家康殿の与力大名となられた父・昌幸殿。その後天正17年、嫡男で私の兄でもある、信之殿を家康殿の元へ出仕させます。その後、兄・信之殿は家康殿の御家臣、本田忠勝殿の御息女・小松姫を正室に迎えて徳川殿との関係を強化なさいます。 #真田語り

2011-09-16 15:30:40
真田左衛門佐信繁 @s_n1567

同年、秀吉殿は北条家・徳川家・真田家の間にあった沼田領問題に御裁定を下します。沼田城を含む三分の二を北条領に、名胡桃城を含む三分の一を真田領に分割する事を両家に提示。双方合意の上でこれを受諾致しました。 #真田語り

2011-09-16 15:32:38
真田左衛門佐信繁 @s_n1567

ところがこの後、北条氏邦殿の家臣・猪俣邦憲殿が謀略を用いて、名胡桃城城代の鈴木重則殿を放逐し、これを奪取。沼田領全域の算奪を謀ります。 #真田語り

2011-09-16 15:34:33