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  • 井伊万千代直政 @1561_naomasa 2011-08-26 19:46:31
    さて。直政殿を監き… いえ、療養中にございますが、せっかくtwitter参加して100日を迎えておいでのようなので、直政殿の半生を私の知る限り簡単に判りやすくお話しようかと思います…が、端折れるところは端折りますので、突っ込みはナシの方向にお願いいたします[木俣守勝]
  • 井伊万千代直政 @1561_naomasa 2011-08-26 19:48:58
    本日は前編。明日後編という形でツイートして参りますので、よろしくお願いします。担当は、井伊家家臣、胃痛餅の木俣にございます。あ、わずかの間でしたが、明智殿の処にご厄介になったこともございます。[木俣守勝]
  • 井伊万千代直政 @1561_naomasa 2011-08-26 20:04:49
    それでは、少しだけお付き合いください。[木俣守勝]
  • 井伊万千代直政 @1561_naomasa 2011-08-26 20:09:45
    1561年(永禄4年)2月19日今川氏の家臣、井伊直親殿の長男として虎松殿が誕生。翌年、今川家家老の小野但馬守により「徳川方に内通した」と讒言され直親殿は申し開きの為に駿府に向かう途中、今川氏真の命で掛川城主の朝比奈泰朝の軍の攻撃を受け19人が討死致してしまいました。[木俣守勝]
  • 井伊万千代直政 @1561_naomasa 2011-08-26 20:15:21
    直政殿は当時まだ2歳であったため、直親の従兄妹であらせられる祐圓尼(次郎法師)様が井伊直虎と名乗り、直政殿の代理として井伊氏の当主になります。直政殿の生母は今川氏の家臣の松下清景殿と再婚された為、井伊氏の家督相続権を剥奪されてしまいました。[木俣守勝]
  • 井伊万千代直政 @1561_naomasa 2011-08-26 20:22:09
    1563年(永禄6年)曽祖父の井伊直平殿が天野氏の犬居城攻めに向かう途中に陣没いたします。『井伊直平公一代記』には曳馬城主、飯尾連竜の妻の、お田鶴の方(椿姫)に毒茶を呑まされ死亡したとの事。…しかし真実は判りません。[木俣守勝]
  • 井伊万千代直政 @1561_naomasa 2011-08-26 21:15:10
    そして、井伊氏は井伊谷の所領を失ってしまい、直政殿も今川氏に命を狙われ続けました。しかし井伊氏重臣である新野左馬助親矩殿に保護され、直政殿は養母の井伊直虎様に育てられます。[木俣守勝]
  • 井伊万千代直政 @1561_naomasa 2011-08-26 21:35:23
    ですが、1564年(永禄7年)の曳馬城(浜松城)攻めにて、井伊氏重臣の新野左馬助と中野越後守が討死し、更に生命を狙われ続けた直政殿は、龍潭寺の住職であった叔父の南渓瑞聞の助力によって鳳来寺に移住し、そこで南渓住職に、その時得られる最低限の知識を与えられます。[木俣守勝]
  • 井伊万千代直政 @1561_naomasa 2011-08-26 21:45:45
    1568年(永禄11年)小野道好に井伊谷城を横領されてしまいます。しかし同じ年、小野に反旗を翻した井伊谷三人衆(近藤康用殿、鈴木重時殿、菅沼忠久殿)が、家康殿に加担を致しまして、家康殿の尽力により実権を回復いたしました。[木俣守勝]
  • 井伊万千代直政 @1561_naomasa 2011-08-26 21:48:26
    そして井伊氏に仇を為してきた曳馬城も落城いたしました。余談にございますが、夫の死後、城主となっていた田鶴の方は自害なさったそうです[木俣守勝] 
  • 井伊万千代直政 @1561_naomasa 2011-08-26 22:13:34
    1569年(永禄12年) 徳川家康殿は「小野但馬守の讒言」を事実無根として、小野但馬守と息子2人を井伊谷蟹淵ではりつけ獄門に処しました。ここで漸く、井伊氏の汚名を雪ぐことができました。[木俣守勝]
  • 井伊万千代直政 @1561_naomasa 2011-08-26 22:22:57
    1575年(天正3年) 直虎殿に養子として育てられていた虎松(直政)殿(15歳)は、浜松で徳川家康に出仕いたします。そして、家康殿より「万に千代に」という意味で井伊万千代の名を頂き、旧知行地の井伊谷を賜りました[木俣守勝]
  • 井伊万千代直政 @1561_naomasa 2011-08-26 22:30:53
    実は、直政殿の祖父の姉妹は今川義元の側室にございまして、義元義弟の関口親水の奥方にございます。そして生まれた御子は家康殿の正室であらせられた築山様にございます。家康殿の御長男、信康殿と直政殿は血縁関係…と言う事になります[木俣守勝]
  • 井伊万千代直政 @1561_naomasa 2011-08-26 22:36:52
    更に言いますと、直政殿の正室の花様は、家康殿の御養女であらせられ、直政殿の御長女の政子様は家康殿の四男、松平忠吉殿の御正室にございます。[木俣守勝] 
  • 井伊万千代直政 @1561_naomasa 2011-08-26 22:41:46
    余談にございました…さて。続けます。 [木俣守勝]
  • 井伊万千代直政 @1561_naomasa 2011-08-26 22:47:57
    1581年(天正9年)高天神城の戦いにて家康殿は5000人の軍勢を率い高天神城を攻撃。兵糧攻め致します。武田勝頼は甲斐から援軍を高天神城へ送ることができず今川旧臣の岡部元信共々、城兵全員が玉砕したそうです。[木俣守勝]
  • 井伊万千代直政 @1561_naomasa 2011-08-26 22:56:03
    1582年(天正10年)そして万千代殿は22歳で元服。井伊家の習わしに従って「直」の文字を使い直政と名乗る様になりました。[木俣守勝]
  • 井伊万千代直政 @1561_naomasa 2011-08-26 22:59:57
    同年3月、新府城から天目山で武田勝頼が自害し、武田氏が滅亡致します。そして甲州若神子城、獅子吼城の戦いにて北条氏の大導寺政繁と北条氏との交渉で徳川方の使者として、直政殿は才能を開花させ、政治的手腕を発揮いたします。[木俣守勝]
  • 井伊万千代直政 @1561_naomasa 2011-08-26 23:06:36
    武田氏滅亡後、本能寺の変から武田遺領の争奪戦を経て、漸く甲斐国は家康殿によって平定されますが、その際に武田の赤備えを支えた遺臣の山県昌景殿の旧臣達を配属した部隊が直政殿のもとに集められ、直政殿もそれにあやかり、ご自分の部隊も赤備えとしたそうでございます。[木俣守勝]
  • 井伊万千代直政 @1561_naomasa 2011-08-26 23:11:52
    本日は此れにて。まだ半分しかツイートできませんでした。続きは、明日また。[木俣守勝]
  • 井伊万千代直政 @1561_naomasa 2011-08-28 20:55:35
    さてと。遅くなりましたが、一昨日の続きのtwitter初めて100日記念・ざっと知る直政殿の半生の後編…の予定でしたが、まとめる能力が多少欠落しておりましたので、本日は中編をツイートします。[木俣守勝]
  • 井伊万千代直政 @1561_naomasa 2011-08-28 20:58:06
    あ、ご挨拶忘れました。直政殿と5歳程しか歳が離れてないのに筆頭家老をしています、木俣と申します。[木俣守勝]
  • 井伊万千代直政 @1561_naomasa 2011-08-28 21:04:41
    1582年(天正10年)直政殿は、家康殿の御養女であらせられる、松平康親殿の娘の花(後の唐梅院)様と結婚され、旗本先手役に任ぜられ、本多殿や榊原殿の御同僚となりました。[木俣守勝]
  • 井伊万千代直政 @1561_naomasa 2011-08-28 21:09:34
    同年6月2日、本能寺の変にて。家康殿の伊賀越えに従い苦労の末、堺より帰還いたします。本能寺の変の後、甲州平定において、北条との交渉を行った直政殿が正使、私、木俣守勝がの副使となりました。この後、直政殿付きの筆頭家老になります。[木俣守勝]
  • 井伊万千代直政 @1561_naomasa 2011-08-28 21:16:52
    1584年(天正12年)家康殿は井伊谷3人衆(近藤康用殿・鈴木重時殿・菅沼忠久殿)に対し、直政殿に仕えるよう命じました。[木俣守勝]

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