井伊直政のざっと読む簡単な半生・まとめ

まとめ
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井伊万千代直政 @1561_naomasa

1585年(天正13年)3月7日小牧・長久手の戦いにて、直政殿は此処で初めて初陣なさいます。家康殿が「羽黒の戦い」では酒井殿と榊原殿を5000の兵と共に羽黒へ派遣。17日早朝、酒井殿の隊が森長可軍勢を攻め、潰走させました。[木俣守勝]

2011-08-28 21:22:47
井伊万千代直政 @1561_naomasa

「岩崎城の戦い」では4月7日に豊臣秀次の軍勢が篠木付近に宿営したとの情報を得た家康殿が、翌日夜、小牧山に6500の兵を残して13500の兵を自ら率いて出撃します。家康殿の本隊が小牧山を出発したのは20時頃で、本隊の先鋒は、直政殿にございます。[木俣守勝]

2011-08-28 21:31:32
井伊万千代直政 @1561_naomasa

「白山林の戦い」では、榊原殿の先発隊が背後から一斉攻撃を開始致しました。不意をつかれた豊臣秀次の軍勢は戦うことすらできないまま潰滅しました。秀次にとって重要な目付や臣下たちを失い、秀次の隊は総崩れを起こし長久手方面へと敗走致しました。[木俣守勝] 

2011-08-28 21:39:34
井伊万千代直政 @1561_naomasa

「桧ヶ根の戦い」では、堀秀政の隊に秀次の隊の敗戦の知らせが届いたのは約2時間後でした。堀秀政はすぐに引き返すとそのまま、榊原殿の隊勢と桧ヶ根で戦います。しかして地の利を得た戦上手の堀秀政に追い詰められて、榊原殿の隊は残念ながら敗走。この時が、秀吉軍唯一の勝利です[木俣守勝]

2011-08-28 21:45:32
井伊万千代直政 @1561_naomasa

「仏ケ根の戦い」では色金山周辺に着いた家康殿の本隊は、富士ケ根(御旗山)から仏ケ根の前山に陣を構えますと、右翼に家康殿自身の隊が3300、左翼に直政殿の隊が3000、更に織田信雄殿達が3000の計9300の兵を配置いたしました。[木俣守勝] 

2011-08-28 21:50:48
井伊万千代直政 @1561_naomasa

一方、岩崎城の戦いで勝利した池田恒興父子と森長可は約300もの首実検をした後、祝宴を開いていたそうです。そこへ、三好秀次の敗戦の知らせが届きます。[木俣守勝]

2011-08-28 21:53:30
井伊万千代直政 @1561_naomasa

その知らせを聞き、恒興の隊と長可の隊は、秀次の敗戦を聞くと既に布陣を終えた私たちの軍に対し、右翼に恒興の嫡男の元助、次男の輝政の隊を4000置き、左翼に長可の隊3000、後方に恒興の隊2000と、計9000の兵で対峙させてきました。[木俣守勝]

2011-08-28 21:59:29
井伊万千代直政 @1561_naomasa

戦いは約2時間続いたかと思われます。暫く一進一退を繰り返しておりましたが、均衡を破ったのは長可が直政殿の隊の銃弾によって撃たれ戦死した事からです。これで私たちの軍が有利となり、恒興も永井直勝殿の槍を受けて討死。元助も安藤直次殿によって討たれました。[木俣守勝] 

2011-08-28 22:06:13
井伊万千代直政 @1561_naomasa

このような事態となり池田輝政は戦場を離脱し、秀吉軍はほぼ潰滅状態となった為に私たちの軍、即ち家康軍が勝利したのです。これを「長久手の戦い(仏ヶ根の戦い)」といいます。[木俣守勝]

2011-08-28 22:14:11
井伊万千代直政 @1561_naomasa

そしてその時から、赤備えは「戦国屈指の精鋭部隊」「徳川家臣団最強の部隊」とうたわれる様になり、直政殿は「井伊の赤鬼」と称され、諸大名に恐れられるようになったのです。[木俣守勝] 

2011-08-28 22:20:48
井伊万千代直政 @1561_naomasa

ちなみに、私が胃痛餅になったのは、直政殿が自ら先陣に立って飛び出して行ってしまう為、筆頭家老になった私、木俣守勝が、本来は直政殿が行うべき指示を行っていたのと、…まあ色々上からと下からの重圧に負けて… はい。[木俣守勝]

2011-08-28 22:27:36
井伊万千代直政 @1561_naomasa

さて。そして小田原城攻めですが、1590年(天正18年)、豊臣秀吉が後北条氏の居城小田原城を包囲し北条氏政、北条氏 直父子を降伏させました。山中城の戦いの際、足柄城を直政殿の隊が4月1日に落とします。[木俣守勝]

2011-08-28 22:38:49
井伊万千代直政 @1561_naomasa

小田原城攻めですが、直政殿が篠曲輪に夜襲を仕掛けました。が、この時、直政殿は種子島を暴発させてしまい左手を負傷なさいます。また、包囲中の5月27日に堀秀政殿が疫病を煩われて仕舞い、陣中にて急死されます[木俣守勝]

2011-08-28 22:46:48
井伊万千代直政 @1561_naomasa

しかし、北条氏の小田原城への籠城も長くは続かず、7月に入ると氏房、氏規が、それぞれ滝川雄利殿と家康殿を窓口として和平交渉に当たりました。[木俣守勝] 

2011-08-28 22:51:20
井伊万千代直政 @1561_naomasa

そして7月5日、氏直は家康殿の軍の陣に向かって、自分の切腹と引き換えに城兵を助けるよう申し出てきました。更に7日~9日にかけて片桐且元殿と脇坂安治殿、そして榊原殿を検使とし、小田原城受け取ることになりました。[木俣守勝]

2011-08-28 22:52:46
井伊万千代直政 @1561_naomasa

その後、直政殿は、箕輪城に入封致します。箕輪城には、徳川筆頭家老の最高石高12万石で入城致しました。理由は、直政殿が小田原城落城のきっかけを作った、篠曲輪攻めでの功績にございました。ちなみに、酒井殿は下総国臼井(碓井)城3万7000石にて、御子の家次殿が入城。[木俣守勝]

2011-08-28 22:54:58
井伊万千代直政 @1561_naomasa

本多殿は下総国大多喜城10万石にて入城。これは、館山城里見の対策のためにございます。そして榊原殿は、上野国館林城10万石にて入城にございます。直政殿が箕輪城に配置されたのは、上杉軍と真田軍の対策でありました。 これは榊原殿か直政殿のいずれかという指示からでした[木俣守勝]

2011-08-28 22:59:59
井伊万千代直政 @1561_naomasa

そうそう。因みにその時に10万石以上を与えられたのは、本多殿、榊原殿、直政殿だけでした[木俣守勝]

2011-08-28 23:00:53
井伊万千代直政 @1561_naomasa

酒井殿ほどの方なら、もっと戴けるはずですよね…本当なら…[木俣守勝] RT @tadatsugutter_s: その頃の酒井左衛門尉家「うわっ…関東移封で、この石高は低すぎ…?」RT @1561_naomasa: そうそう。因みにその時に10万石以上を与えられたのは、本多殿、榊原

2011-08-28 23:05:11
井伊万千代直政 @1561_naomasa

Σえ゛[木俣守勝] RT @sakaki_koheita: @tadatsugutter_s @1561_naomasa 「すいません知行割りしたの弟です……」

2011-08-28 23:05:58
井伊万千代直政 @1561_naomasa

さて。本日はこれにて終了です。後編は明日か明後日に。長くなって申し訳ございません。  …まとめ能力ないな…私… [木俣守勝]

2011-08-28 23:09:26
井伊万千代直政 @1561_naomasa

さて。それでは、さらっと直政殿の半生・前中後編の後編を始めます[木俣守勝]

2011-08-29 22:47:40
井伊万千代直政 @1561_naomasa

1598年(慶長3年) 箕輪城を廃城し、直政殿は箕輪城から高崎城に移り城下町を造ります。最初は松ヶ崎城と直政殿が名付けようと致しましたが、松は枯れるので縁起が悪いと龍門寺の白庵和尚に言われ、高崎に改称したします。

2011-08-29 22:51:58
井伊万千代直政 @1561_naomasa

しかし、家康殿付きの公務があまりに多忙過ぎて、直政殿は高崎には腰を落ち付けられませんでした。翌々年の1600年。長かった戦国時代が終わりを告げます[木俣守勝]

2011-08-29 22:54:05
井伊万千代直政 @1561_naomasa

それが9月15日に起きた関が原の戦いです。直政殿は家康殿の本軍に随行し、本多殿と共に東軍の軍監に任命されます。 家康殿の御為に奔走していた直政殿は、大坂にて反石田三成派の諸将との交渉に多数携わっていました。[木俣守勝]

2011-08-29 22:57:03