井伊直政のざっと読む簡単な半生・まとめ

まとめ
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井伊万千代直政 @1561_naomasa

その日の関ヶ原は、早朝から立ち込めた濃霧で視界があまりよくありませんでした。家康殿から東軍の先陣を任されていた福島正則殿はじっと開戦の時期窺っていたそうです。そこに直政殿が、初陣の家康殿の四男にあたる娘婿の松平忠吉殿と共に彼を差し置いて先鋒を務められたのです。[木俣守勝]

2011-08-29 22:58:57
井伊万千代直政 @1561_naomasa

その時、直政殿は「ここにおわすは、家康公の御子息にして松平下野公である。下野公は初陣のため、後学に先陣を物見に行く」と、福島殿に告げたそうです。当然ながら、家康殿の御子息であると聞かされては福島殿達は退くしかなく、直政殿はそのまま敵陣へ突進されました。[木俣守勝] 

2011-08-29 23:03:29
井伊万千代直政 @1561_naomasa

本来ならば、直政殿も忠吉殿も軍令違反で処罰の対象になってしまうのですが、家康殿が直政殿の駆け抜けを認めてしまった為に、処罰されませんでした。直政殿はどうしても、徳川家の命運を左右するような戦で、徳川家ではない福島殿が一番乗りの名乗りを上げることを避けたかったのです。[木俣守勝]

2011-08-29 23:09:27
井伊万千代直政 @1561_naomasa

娘婿の忠吉殿に初陣での武勲を与えると同時に「徳川が動いたために開戦した」という結果が欲しかったのでしょう。そして直政殿と忠吉殿が伴った少数精鋭の隊は、そのまま宇喜多秀家の軍と小西行長の軍と戦いました。[木俣守勝]

2011-08-29 23:11:00
井伊万千代直政 @1561_naomasa

結果、西軍の仕掛けてきた鶴翼の陣の大谷軍、宇喜多軍、小西軍は、小早川秀秋の離反…寝返りによって直政殿他の隊によって撃破され、西軍の陣営は崩されて仕舞います。[木俣守勝]

2011-08-29 23:12:58
井伊万千代直政 @1561_naomasa

そして、東軍を突破してきた島津軍との戦いが始まります。この戦いで島津義弘の甥である島津豊久は、義弘の影武者となり、島津独特の戦い方である「捨て奸」という戦法を用いてきました。「捨て奸」とは、撤退時に鉄砲隊や歩兵を置き去りにし、伏兵にする戦術だそうです。[木俣守勝]

2011-08-29 23:16:28
井伊万千代直政 @1561_naomasa

追撃してくる敵から本隊を守るために伏せたり座り込んだりした鉄砲隊が追撃部隊を射撃して、死ぬまでそこに留まり敵の追撃を遅らせます。当然、その 足止め隊はまさに置き捨てであり生還する可能性がほとんど無い、壮絶な白兵戦の戦法のひとつでした。[木俣守勝]

2011-08-29 23:18:32
井伊万千代直政 @1561_naomasa

そして、直政殿もその「捨て奸」の餌食となって仕舞います。影武者として義弘として討って現れた島津豊久を討ち取ることには成功しましたが、隠れ潜んでいた島津軍の伏兵が放った種子島の凶弾が右肘関節に命中してしまい、落馬したのです。[木俣守勝]

2011-08-29 23:23:46
井伊万千代直政 @1561_naomasa

同じく直政殿の娘婿で、家康殿の御子息であらせられる忠吉殿もその時に負傷なさいますが、家康殿は直政殿ばかり気にかけ、忠吉殿に対しては冷たかったとのことですが、私はその場におりませんでしたので、詳しいことは判りません。[木俣守勝]

2011-08-29 23:27:56
井伊万千代直政 @1561_naomasa

そして残された石田三成の本陣も、私たちの軍、即ち徳川軍の総攻撃の前についに崩壊し、9月15日の昼、開戦から約半日。様々な出来事があった日本最大の大合戦であった「関ヶ原の戦い」は、戦闘時間は僅か約6時間ほどで、決着が付きました。[木俣守勝]

2011-08-29 23:33:26
井伊万千代直政 @1561_naomasa

1601年(慶長6年)直政殿は戦場での武功により大幅に加増されます。そして石田三成の本拠であった近江佐和山十八万石を拝領致しますと、佐和山城に移りました。しかし関ヶ原で大怪我を負ったにも関わらず、直政殿は精力的に戦後の処理と江戸幕府の基礎固めに尽力致しておりました。[木俣守勝]

2011-08-29 23:41:05
井伊万千代直政 @1561_naomasa

全ては、家康殿の他御為に。忠義を尽くし続けた直政殿にございます。そして西軍の総大将を務めた毛利輝元との講和、長宗我部盛親の謝罪の取次ぎをした後、盛親が家臣の讒言から兄を殺害してしまったことにより所領没収となった際には、部下を土佐へと派遣致しました。[木俣守勝]

2011-08-29 23:47:29
井伊万千代直政 @1561_naomasa

そして。1602年(慶長7年)2月1日。直政殿は己の死期を悟り、故郷である井伊谷に二度と帰れないことを悔やみつつ、近江国にも井伊谷と同じ龍潭寺を建立する事を遺言を残すと、長きに渡る家康殿への奉公による過労と関ヶ原で受けた鉄砲傷が起こした敗血症で此の世を去られました。[木俣守勝]

2011-08-29 23:53:39
井伊万千代直政 @1561_naomasa

直政殿の御遺体は、佐和山城下の程近くを流れる芹川の中州へと運ばれますと、嫡男の直継(直勝)殿をはじめとし、私を含む多くの家臣団が見守る中、荼毘に付されました。そしてその遺骨は、彦根の清涼寺と井伊谷の龍潭寺に分骨され手厚く葬られたのにございます[木俣守勝]

2011-08-29 23:57:39
井伊万千代直政 @1561_naomasa

そして私は、直政殿のもう一つの遺言である…[木俣守勝]

2011-08-29 23:59:23
井伊万千代直政 @1561_naomasa

「井伊家は徳川殿のお取り立てによって今日があることを忘れてはならない。徳川家へのご奉公第一に勤める事、忠節一筋を心掛けよ。これは代々家を継ぐものに申し送って、違反の内容にさせよ。また井伊家では将軍家やその一門など、権勢高い家とは婚姻を結ばない様に」[木俣守勝]

2011-08-30 00:00:05
井伊万千代直政 @1561_naomasa

という、直政殿の切なる願いを、井伊の一族の方々へと、お伝えいたしました[木俣守勝]

2011-08-30 00:00:59
井伊万千代直政 @1561_naomasa

…これが、私がお仕えしている直政様の半生にございます。4日間に渡るツイート、ご清聴ありがとうございました。これは、私の主観によってまとめ、そしてツイートしたものですので、あれがない。これがないというところもあるかもしれません[木俣守勝]

2011-08-30 00:05:07
井伊万千代直政 @1561_naomasa

もし、今回の私のツイートで直政殿のことが気になった方がいらっしゃいましたら、是非、いろいろたくさんある文献を紐解いてみて下さい。 ありがとうござました。[木俣守勝]

2011-08-30 00:07:00