真田語りをしてみました ②

前回の続き。父・昌幸殿編。
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真田左衛門佐信繁 @s_n1567

そして、この第二次上田合戦が、父・昌幸殿の武将として臨んだ最後の戦となったのです。 #真田語り

2011-09-16 17:55:08
真田左衛門佐信繁 @s_n1567

関ヶ原の戦いの後、徳川殿は上田城の没収と、父・昌幸殿、そして私の死刑を決定されます。ところが、この結果を受け、兄・信之殿・本多忠勝殿が必死の助命嘆願をなさってくださり、極刑免れた父と私は、高野山に配流される事になりました。父・昌幸殿は相当に悔しかったようです。#真田語り

2011-09-16 18:00:04
真田左衛門佐信繁 @s_n1567

慶長5年12月13日。本来は高野山に放逐される予定だったのですが、同行者の中に私の妻と子等が混ざっていた為、女人禁制の高野山には入れず、その麓の九度山に蟄居する事になりました。#真田語り

2011-09-16 18:02:49
真田左衛門佐信繁 @s_n1567

そして九度山での日々が流れる中、ある程度の自由は許されてはいても、罪人としての生活。その間の生活は兄・信之殿が見てくださっていましたが、経済的にも逼迫し、苦しかったのを覚えています。まあ、子供も増えましたしね…あの期間に。ええ…。兄上、義姉上には苦労を掛けました…。#真田語り

2011-09-16 18:04:24
真田左衛門佐信繁 @s_n1567

晩年を迎えた父・昌幸殿は病がちとなり、その覇気も徐々に衰えていったように思います。いつか徳川殿に許される日が来るのでは…と、遠い真田の地へ思いを馳せたり。兄に会いたい、話しておきたい事があると申され、病床の父に代わり、文を代筆した事もありました。#真田語り

2011-09-16 18:08:04
真田左衛門佐信繁 @s_n1567

体調が許し、共に碁を打ったり色々な兵法・軍略に付いて語り合う時は幾分お元気そうには見受けられましたが、病と老いには勝てず…。慶長16年6月4日。父・昌幸殿は帰らぬ人となられました。亨年・六十六歳。臨終に際し、父・昌幸殿は私にこう言い残されたという逸話があります。#真田語り

2011-09-16 18:10:31
真田左衛門佐信繁 @s_n1567

「遠からぬ先、徳川と豊臣の間に戦が起こる。その時、豊臣方は大阪城に籠城すべきでない。あの城は籠城には不向き。京、大和国、近江の要所を先に押さえ、積極戦に臨まねば勝機はない」同時に、「この献策は、己なら聞き入れられるかもしれないが、若輩のお前では如何であろうな」と。#真田語り

2011-09-16 18:12:15
真田左衛門佐信繁 @s_n1567

何かの予見のような…。その時の父の目にはどのような景色が見えていたのか。当時の私は、量り知る事はできませんでした。後に父の遺したその言葉を、現実の物として目に映したやもしれない機会に出会うまでは。 #真田語り

2011-09-16 18:14:09
真田左衛門佐信繁 @s_n1567

――これにて、「真田は我が両目の如き者」「真田、表裏比興の者」と評され、その知謀でもって乱世を走り抜けた我が父・真田安房守昌幸殿の物語は、お終いに致します。長い時間お邪魔いたしました。そして、ご清聴有難うございました。<(_ _)> #真田語り

2011-09-16 18:15:31
筧十蔵 @juzo_kakei10

…む。信繁様のお話か。後で読ませて頂くと致そう。→ #真田語り

2011-09-16 18:19:19