「武田信玄の子供たち」人物編(第一章・第二章)読後所感

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日光81 @nikko81_fsi

「武田信玄の子供たち」人物編読了。栄養素が濃すぎて腹を下しております(だから表現)先般の #甲斐源氏ツアー が役に立ったのも驚き。武田龍芳や仁科信盛、武田信豊や麟岳のまとまった著述として貴重だし、勝頼論も意欲的な内容。更にこれに城郭編があるんだぜ…カロリー高すぎる(喜) twitter.com/nikko81_fsi/st… pic.twitter.com/7Z1a9p4Dln

2022-05-29 18:24:26
日光81 @nikko81_fsi

「武田信玄の子供たち」読み進めてますが、内容濃すぎて吐きそうです(表現)これも常に手元に置いて辞書がわりに参照しないといけない類いの本…

2022-05-29 12:23:21
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日光81 @nikko81_fsi

別途、家臣団人名辞典や戦国遺文その他諸々、各論考で示されている参考文献も当たりながら、一点一点しっかり味わいたい。「武田信玄の子供たち」たくさんの示唆に富むスゴい内容です。

2022-05-29 18:26:29
日光81 @nikko81_fsi

「武田信玄の子供たち」精読中。関連書籍をひっくり返して読んでるから、進みが遅い遅い。

2022-06-11 21:58:05
日光81 @nikko81_fsi

人物編の第一章・第二章再読了。手元に関連資料を用意して読み進めると更に多くの知見が得られることを実感。印象深いのは勝頼・信豊・信盛の3名ですね。以下、感想を垂れ流します。 twitter.com/nikko81_fsi/st…

2022-06-12 12:02:46
日光81 @nikko81_fsi

武田勝頼の深沢論文では、まず冒頭の昨今の「勝頼復権」に対する警鐘が印象的。ポジティブなイメージが付きすぎることで、公平な人物評価を阻害する可能性を指摘されており同意しつつ、権力基盤の脆弱性を指摘される勝頼の当主としての立場を確保する手法に、信玄の手法との連続性を見いだす。 twitter.com/nikko81_fsi/st…

2022-06-12 12:05:22
日光81 @nikko81_fsi

具体的な論点は、①宿老衆との婚姻関係構築による関係改善、②近臣させることによる人間関係づくりとこれを基盤にした積極的な側近層の新規形成、③御一門衆の再編と確立、の3点。

2022-06-12 12:06:59
日光81 @nikko81_fsi

家督継承直後の優先順位としてはまず①から着手したとみえ、内藤昌秀の後継に、高遠依頼の勝頼近臣保科氏から養子をいれたり(内藤昌月)秋山虎繁の後継に、昌続・昌恒の兄弟と虎繁娘と婚姻させたり(秋山昌詮)… twitter.com/nikko81_fsi/st…

2022-06-12 12:07:50
日光81 @nikko81_fsi

長篠以前の君臣対立や長篠敗戦が契機というわけでもなく、宿老衆対応に、家督継承直後から勝頼は着手していて、その手法も、自身の近しい人物を先代重臣と婚姻関係を結ばせて、関係をつくるという、信玄のとった武藤昌幸・加津野昌君の手法を想起させるもので興味を惹く。

2022-06-12 12:09:46
日光81 @nikko81_fsi

②については、直接は出てこないが武田氏研究第60号の深沢論文「武田信玄・勝頼と岡部元信」を参照したい。今川時代に信玄とも長年の関係を持ち、勝頼代になって急速に重用される一環として子息を近臣させているあたり、読んで感じたテーマと深く関連した。 twitter.com/nikko81_fsi/st…

2022-06-12 12:11:51
日光81 @nikko81_fsi

信玄との厚誼を足がかりに重用を進める元信から、さらにその一歩進め、継続的に自身の意を汲める人材育成に着手していて、ここも真田昌幸や山県昌景らと同じキャリアを歩ませる信玄的な手法を勝頼が採っているという点に、組織運営・人材育成観点でみたときの、信玄・勝頼の連続性を見いだせた。

2022-06-12 12:12:54
日光81 @nikko81_fsi

また、①で言及した内藤昌月も後世の史料ながら、勝頼小姓として出頭無類とあり、ここでも昌月のそもそもの勝頼との関係の深さを見いだせるかもしれない…と思うと、平凡社「武田勝頼」を引っ張り出したくなってくる。

2022-06-12 12:13:57
日光81 @nikko81_fsi

ここで言及されている「郡司に求めた勝頼の法規範」、考察の素材となるのは、天正七年二月の内藤昌月宛の在城定書(戦武補遺105)である。ここには勝頼が昌月へ、現地への配慮や公平な統治姿勢を持つよう、説く姿を見て取れる。

2022-06-12 12:15:28
日光81 @nikko81_fsi

内藤昌秀が箕輪城代に着任したときに、信玄が与えた在城定書とも共通した価値観だが、勝頼は更に昌月に統治の心構えを説く。その価値観自体が信玄との連続性を示すものでもあるし…

2022-06-12 12:15:56
日光81 @nikko81_fsi

勝頼が昌月に説くということを、高遠以来の勝頼と保科氏との関係、さらに勝頼小姓として覚えのめでたい昌月という文脈で捉えつつ読むと、小姓から出世した信玄の重臣との関係と重なって見えてくるのだ。

2022-06-12 12:16:33
日光81 @nikko81_fsi

異質な面も多いとは思うが、晴信初期段階も、あくまで板垣ら重臣層に「神輿」として担ぎ上げられた側面もあり、晴信自身も家中を統制しきれておらず、板垣・甘利の戦死を契機に、徐々に分掌化させたり、自分と長い時間を過ごすことでその意を汲める人材をメインに据えてるように画策してきたはず…

2022-06-12 12:17:39
日光81 @nikko81_fsi

そうしたなかなか意が通らない環境を「改善」するために、信玄のやってきたプロセスが、図らずもなのか、皮肉にもなのか、勝頼が家督継承した時にも、活きているように思えた。

2022-06-12 12:18:14
日光81 @nikko81_fsi

③御一門衆再編については、武田信豊の小川論文も参考にすると、義信事件後、勝頼が当主後継の有力候補になるなかで、藩屏の薄さを懸念した信玄が早期に当主を支える藩屏としての信豊を育てたいという意志を読み取れるだけでなく… twitter.com/nikko81_fsi/st…

2022-06-12 12:18:51
日光81 @nikko81_fsi

信頼できる藩屏になる御一門衆を意識的に形成していく重要性やその手法を勝頼が身につけていく契機でもあったのかな、という印象も持つ一方で、典厩家と穴山家のバランスの問題はどうしても問題としてあげざるを得ないかな。

2022-06-12 12:19:10
日光81 @nikko81_fsi

事実、所収の多くの論文で、天正9年勝頼娘と穴山勝千代との婚約を破談させ、信豊嫡子次郎との婚約にスイッチさせた甲陽軍鑑の話が象徴的に挙げられる。事実かどうかよりも、これが軍鑑で語られる意味とは。

2022-06-12 12:20:10
日光81 @nikko81_fsi

信盛も、この御一門衆のバランスに影響を与えている…と仁科信盛の村石論文を読んで感じる。信盛が天正5年頃から動きを見せていくなかで、自身の成長と御館の乱を契機に安曇郡の支配における存在感を高め、更に越後、越中、飛騨への影響力行使をしていく背景、勝頼の木曾義昌への警戒感があった。

2022-06-12 12:21:04
日光81 @nikko81_fsi

御一門衆とも見なせるが、一円的に支配する領域をもち、従属国衆としての側面がにわかに問題になると、その点、可能性としては、穴山梅雪も同じ事がいえ、典厩家との扱いの差として現れてしまっているのかもしれない。

2022-06-12 12:21:27
日光81 @nikko81_fsi

また、信盛が高遠に配されたのも、もちろん勝頼とも縁が深いというのもあるけれども、当初から木曾義昌監視の担い手としての信盛を考えると、木曾口に繋がる重要拠点に信盛をもってくる意味も見いだせる。

2022-06-12 12:21:39
日光81 @nikko81_fsi

もうひとつ、信盛関連では、恐らく信盛妻が信繁娘という点は、黒田先生の今後の論考で出てくるものと期待したいが、早くに亡くなる。そして後妻が逍遙軒娘というのもポイント。人名辞典によれば、嫡男信基、八王子に松と逃れた娘は母が逍遙軒娘だそうで、勝頼家督相続前後頃に妻に迎えていそう。

2022-06-12 12:23:10
日光81 @nikko81_fsi

天正4年に嫡男信隆が夭折、庶兄は大龍寺住持の麟岳和尚、逍遙軒の後継は不在。信玄の遺志か勝頼に意向がわからないが、逍遙軒娘との婚姻で、逍遙軒家に代わる(あるいは逍遙軒家を継承する)藩屏にする期待があったのではないかという印象ももった。

2022-06-12 12:24:35
日光81 @nikko81_fsi

高遠城は岳父で叔父の逍遙軒と交代で入っている経緯もあるし、麟岳和尚の指南で仕える行き場のない人物を仁科信盛に仕えよとしている文書もあり、信盛と逍遙軒一家とのつながりを見いだせる。とすると…

2022-06-12 12:25:14