「鎌倉殿の13人」第28回 (お勉強中心)

「名刀の主」
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酒上小琴【サケノウエノコゴト】 @raizou5th

梶原景時を糾弾する連判状。『吾妻鏡』の正治元年十月廿八日条に66人中31人の名が記されている。畠山重忠、和田義盛、比企能員、安達盛長ら13人の宿老や、千葉常胤、三浦義澄、結城朝光、山内首藤経俊、宇都宮頼綱らの有力御家人の名があるのに、なぜか北条時政の名はないのよね。 #鎌倉殿の13人

2022-07-24 20:28:56
酒上小琴【サケノウエノコゴト】 @raizou5th

なるほど「名刀の主」とは切れ者・梶原景時の持ち主のことなのか。いくら斬れる刀でも、持ち主の腕がなければ切れ味は生きない。また、名刀は持ち主を選ぶ。自らが生かされる主を求める。歌舞伎の『石切梶原』で景時が名刀の切れ味を偽ったように、偽わろうとも正しい主に。 #鎌倉殿の13人

2022-07-24 20:42:52
酒上小琴【サケノウエノコゴト】 @raizou5th

正治2(1200)年1月20日鎌倉を追放され京へ向かった梶原景時一行は、駿河国清見関で在郷の武士達に見つかり、襲撃を受けた。その中の一人、吉川(吉香)友兼は景時の三男・景茂を討ち取ったが(友兼も死亡)、その太刀が吉川家の家宝として拵もそのままに伝来した。国宝「狐ケ崎為次」である。 #鎌倉殿の13人

2022-07-24 20:43:36
酒上小琴【サケノウエノコゴト】 @raizou5th

三谷幸喜さんが「最後の最後に見せ場が」と言っていた三浦義村。ラスボスの片鱗を見せつつあるわね。 #鎌倉殿の13人

2022-07-24 20:51:56
酒上小琴【サケノウエノコゴト】 @raizou5th

燕が斉を攻めたとき、斉の王蠋は賢人であると聞いた燕の将軍は「あなたを将軍とし、一万戸の領地を与える」と誘ったが、「忠臣は二君に仕えず」と返答して首を括り死んだ。斉の遺臣は無位無官の王蠋が死をもって義を示したのを知り、王を探し出し、斉を再興した。『史記』「田単列伝」 #鎌倉殿の13人

2022-07-24 21:40:46
Vatanabeus @nabe1975

源頼朝と梶原景時は、単なる主従の繋がりを越えて和歌を好む教養人同士の友情も存在していたという。「吾妻鏡」には、遠江国橋本駅で遊女たちから言い寄られた頼朝主従が交わした連歌が伝わる。 「吾妻鏡」建久元年(1190年)10月18日条 pic.twitter.com/8QLHaO91nI

2022-07-24 18:56:04
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Vatanabeus @nabe1975

「はしもとの君にハなにかわたすへき」 (橋本のあの子たちには何を贈るべきか) 「たゝそ満かハのくれてすきはや」 (その辺りの丸太でも与えておきましょう) そ満かハ(杣皮)は樹皮付きの丸太。くれ(榑)とすき(杉)も同様の意味で、さらに「暮れ」と「過ぎ」にかけて道中を急かしている。

2022-07-24 19:01:14
Vatanabeus @nabe1975

「増鏡」によれば、頼朝は遊女たちの歓待に対して馬鞍や括り染めの布地を贈って喜ばせたという。 景時の返歌「そ満かハ」に因み、「染ま」った布と「革」の鞍を贈ったのだと伝わる。

2022-07-24 19:04:34
Vatanabeus @nabe1975

判官贔屓の影響から、梶原景時の評価は長い間主君に讒言を行う佞臣、奸臣という芳しくないものであった。評価が改まるのは第二次世界大戦後のことで、優れて官僚的な武士であったと見なされるようになった。生前の立場や評価の変転は、石田三成と共通するものがある。 pic.twitter.com/kkdlJrBD3U

2022-07-24 11:16:23
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Vatanabeus @nabe1975

梶原二度の駆け 一ノ谷の戦いにおいて、梶原景時の子景高が単騎で敵中に駆け入り苦戦しているのを見た景時と景季が攻め入り助け出したが、今度は景季の姿が見えなくなった。景時は「敵陣深く入り込んで討たれたのではないか」と涙を流し再度駆け入り、景季を救出した。我が身を顧みぬ親心である。 pic.twitter.com/9kBRjIehBa

2022-07-24 19:52:51
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Vatanabeus @nabe1975

十三人のまとまらなさそうな合議制が始まる。 #鎌倉殿の13人

2022-07-24 20:00:47
Vatanabeus @nabe1975

当時の八田知家は本拠地を下野国から常陸国に移しており、常陸の情勢に詳しかったと見られる。 #鎌倉殿の13人

2022-07-24 20:02:16
Vatanabeus @nabe1975

安達盛長は頼朝の死と共に出家し、蓮西を名乗った。三河国の守護を務めているが、生涯無位無官であった。 #鎌倉殿の13人 pic.twitter.com/hRCKLFM1qE

2022-07-24 20:03:28
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Vatanabeus @nabe1975

この時期、北条時連は頼家の側近として重用されている。 (北条氏の間諜を務めていたと見る向きもある) #鎌倉殿の13人

2022-07-24 20:07:51
Vatanabeus @nabe1975

源頼朝と政子の次女、三幡が没したことにより、生前の頼朝が画策していた入内計画は水泡に帰すこととなった。 #鎌倉殿の13人

2022-07-24 20:09:03
Vatanabeus @nabe1975

「吾妻鏡」には頼家を狩りや遊興にうつつを抜かす暗君とする描写が見られるものの、後年の頼家失脚や比企族滅から考えると割り引いて見る必要がある。 #鎌倉殿の13人

2022-07-24 20:10:21
Vatanabeus @nabe1975

結城朝光の「忠臣は二君に仕えず」 その傍らにいる善児。 #鎌倉殿の13人

2022-07-24 20:13:04
Vatanabeus @nabe1975

「忠臣は二君に仕えず」は、中国戦国時代の武将田単の言葉。燕の軍勢に包囲され、降伏を勧められた時に発したものとされ、「貞女は二夫を更めず」と対比される。 #鎌倉殿の13人

2022-07-24 20:14:25
Vatanabeus @nabe1975

源頼家が安達景盛の妻(妾)を奪おうとする逸話は「吾妻鏡」に登場する。古今東西、暴君の典型例であり、頼家暗君説の一因となっている。 #鎌倉殿の13人

2022-07-24 20:17:04
Vatanabeus @nabe1975

安達藤九郎がここまで声を荒げるのは、実は初めてのことである。頼朝の忠臣、最後の諫言である。 #鎌倉殿の13人

2022-07-24 20:18:08
Vatanabeus @nabe1975

主君の不興を顧みず諫言を行う家臣を、争臣と呼ぶ。主君にとっては煙たい存在であるが、かけがえのない存在でもある。 #鎌倉殿の13人

2022-07-24 20:19:14
Vatanabeus @nabe1975

若き主君の暴挙に、主人公までキレる #鎌倉殿の13人

2022-07-24 20:20:12
Vatanabeus @nabe1975

「父上も同じことをしてきたではないか。なぜわしだけ」 好色な部分まで含め、結局のところ頼家は小型の頼朝に過ぎなかったのかも知れない。 #鎌倉殿の13人

2022-07-24 20:20:48
Vatanabeus @nabe1975

結城朝光粛清を御家人綱紀引き締めに使おうとする景時。しかし。 #鎌倉殿の13人

2022-07-24 20:22:15
Vatanabeus @nabe1975

史実では結城朝光が三浦義村に助けを求めたが、今回は義村が景時告発を主導している。 #鎌倉殿の13人

2022-07-24 20:23:19
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