大江広元は梶原景時の才覚を惜しみ、連判状を頼家に報告しようとしなかった。和田義盛は広元を説得し、頼家に報告させている。 #鎌倉殿の13人
2022-07-24 20:29:04兵を整え、景時を討つ。 放置していては危険すぎる男であり、また景時の望むところでもあった。 武士らしく死なせる。 #鎌倉殿の13人
2022-07-24 20:42:16梶原景時は当時の東国武士の中では教養があり、和歌を嗜む風流人でもあった。源頼朝には信頼され、都の貴族からは「一ノ郎党」や「鎌倉ノ本体ノ武士」と称されたが、権力者の側近は同時に同僚である御家人からの恨みを買いやすい立場でもあった。 pic.twitter.com/yEO7id8bwl
2022-07-24 10:46:39十三人の合議制が始まった正治元年の秋、結城朝光が侍所で「忠臣二君に仕えずというが、あの時出家すべきだった。今の世はなにやら薄氷を踏むような思いがする」と述べた。その翌々日、政子の妹である阿波局から朝光は「あなたの言葉を謀反の証拠として梶原が讒訴しようとしている」と警告を受けた。 pic.twitter.com/RItgjuJzgu
2022-07-24 10:51:20警告に驚いた結城朝光は三浦義村に相談すると、鶴岡八幡宮に和田義盛ら有力御家人を集めて梶原景時糾弾の連判状を作成する。連判状には結城、三浦、和田を始めとして有力御家人66人が名を連ねていた。連判状を受け取った大江広元は景時を惜しみ躊躇したが、和田義盛に押し切られ将軍頼家に言上した。
2022-07-24 10:56:29頼家は景時に連判状を見せ弁明を求めたが、景時は何の抗弁もせず一族を引き連れて所領の相模国一宮に下り謹慎した。結局頼家は景時をかばい切れず、景時は鎌倉追放を申し渡され鎌倉の邸は破壊された。景時が有していた播磨国と美作国の守護職は、それぞれ小山朝政と和田義盛に与えられた。
2022-07-24 11:01:32正治2年(1200年)正月20日、景時は一族を引き連れ上洛の途上に東海道の駿河国清見関で在地武士らの襲撃を受けた。景時らは抗戦するものの壊滅し、景時と一族らの首は路上に晒された。頼朝の死から一年後のことであった。「吾妻鏡」では武田有義(武田信義の子)を擁立し謀反を企んだとする。 pic.twitter.com/4FAt6jr3Q2
2022-07-24 11:11:33「梶原平三誉石切」 通称を「石切梶原」とも呼ぶ、歌舞伎狂言の演目。石をも両断する名刀の試し切りにおいて、梶原景時が源氏に所縁ある父娘の命を救う。梶原景時は思慮深い正義の侍として描かれている。 (享保15年大阪竹本座初演の舞台) pic.twitter.com/msnPKSfz8Q
2022-07-24 11:27:38狐ヶ崎為次 古青江派の刀工、為次の作。梶原景時を討ち取った吉川友兼の佩刀として知られ、現在の呼称は景時が討ち取られた狐ヶ崎の地名に因む。吉川家の家宝として代々伝えられ、1951年には国宝に指定されている。 pic.twitter.com/QmI0RpH8Rx
2022-07-24 11:36:42梶原二度の駆け 一ノ谷の戦いにおいて、梶原景時の子景高が単騎で敵中に駆け入り苦戦しているのを見た景時と景季が攻め入り助け出したが、今度は景季の姿が見えなくなった。景時は「敵陣深く入り込んで討たれたのではないか」と涙を流し再度駆け入り、景季を救出した。我が身を顧みぬ親心である。 pic.twitter.com/9kBRjIehBa
2022-07-24 19:52:51/ #吾妻鏡 正治元年(1199)6月30日条 \ 源頼朝の娘・三幡が亡くなりました。母・政子は悲嘆し、周囲の人間の悲しみは記しきれないほどだったそうです。 #鎌倉殿の13人 pic.twitter.com/zIowYdu4sC
2022-07-24 21:30:00/ #吾妻鏡 正治元年(1199)6月30日条 \ 三幡の乳母夫(めのと)である中原親能が、彼女の死を悼み出家しました。 #鎌倉殿の13人 pic.twitter.com/Vj4sXLKmMy
2022-07-24 21:31:00/ #吾妻鏡 正治元年(1199)7月26日条 \ 源頼家が安達景盛の妾(めかけ)である美女を御所に召し、今後は御所に住むように指示しました。これは、頼家が彼女を非常に寵愛(ちょうあい)していたためです。 #鎌倉殿の13人 pic.twitter.com/Sdr6aAXPOS
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