安達景盛と源実朝:高野山西南院のツイートから
- m_sanetomo
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併し実朝は不法とか非法とか非倫とか、乃至は政務を怠るとかいふやうなことで、義時から諌言されたことは、只の一度もないやうである。その点北条氏としても、多く非の打ちどころのない良将軍であったのも事実であらう。実朝が十二歳から廿八歳まで比較的永く、而も将軍としての権威を、未だ甚だしく
2022-08-25 19:01:30失墜することなしに、ともかくもその地位を保ち得たことは、所詮は実朝の何処かに善いところがあり、偉いところもあったが為であると言つてよいと思ふ。況んや実朝には金槐集といふ、当時他の何人も追随し得ない一篇の遺産がある。実朝の名は永久に天地の間に朽ちないのである」
2022-08-25 19:01:43何人かの研究者の方から、『将軍実朝』との著者大塚久氏について、個人的にお尋ねがありました。 せっかくですので、大塚氏についてご紹介しておきましょう。
2022-08-26 14:54:52生没年未詳。号は介堂。東京帝国大学文科大学国史科において、三上参次・田中義成両博士の指導を受けられました。卒業後、明治39年(1906)より跡見女学校で国語・歴史担当の教員を務めています。その担任学級にいたのが、かの岡本かの子です。
2022-08-26 14:55:06鎌倉時代や戦国時代に造詣が深く、ご紹介した『将軍実朝』以外にも、『政略結婚と武将の家庭』(雄山閣 、1929年)という著作があります(戦国時代の女性に着目した著作としては、かなり早いのではないでしょうか)。その序文には、先輩にあたる渡辺世祐博士の好意で、史料を閲覧できたとあります。
2022-08-26 14:55:20実朝や実朝将軍期を扱った歴史書で、参考文献に『将軍実朝』を挙げているのは、研究史をしっかり抑えている証拠ですね。その逆は……(以下略、笑)
2022-08-26 15:01:01西南院+金剛三昧院 寺宝展@高野山 に教えていただいた大塚久『将軍実朝』(高陽書院、1940)は学界に継承されていなかった優れた業績。今頃になりましたが、存在を知れて嬉しいことでした。あらためて、大森金五郎や三浦周行の著作を読み直しています。同じことのくり返しにならないように。
2022-08-26 20:49:35「将軍実朝」は国会図書館デジタルコレクションにて公開されている。
ただし国会図書館オンラインのアカウントを取得しログインする必要があるのと、読む方法が所定のサイト内での表示に限られる(ダウンロード不可)点に注意。
余談:「安達事件」の顛末
さて安達景盛といえば、大河ドラマ「鎌倉殿の13人」第28話にも登場を果たした。
登場人物 安達 景盛 (新名 基浩) | NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」
兄上(源頼家)に妻を奪われる哀れな御家人という役どころだったが、鎌倉幕府の歴史書『吾妻鏡』の記録と比較すると、省略された部分がかなりある。
景盛の件、ちょっと言い訳させてもらう(笑)。あのとき三河国(現在の愛知県)で室平四郎重広という者が強盗なんかを率いて暴れているという情報が入り、守護を務めていた安達にそれを鎮めるよう申し付けたんだ。 盛長はもうじいさんだったから、景盛にな。
2022-07-24 21:07:31でも景盛のやつ、「彼女と別れたくないからヤダ―!!」となかなか行こうとしなかったんだ。その彼女、俺もかねてから気に入ってた女子だったし、ちょっと頭にきて事情聴取を兼ねて連れてきた…と思ってるんだけど。#鎌倉殿の13人
2022-07-24 21:07:32ちなみに吾妻鏡では広元も「鳥羽院が寵愛されていた祇園女御は、元々は源仲宗の妻でした。しかし彼女が仙洞御所に召された後、仲宗は流罪となりました。前例が無いわけではありません。」って言ってたので、俺の行動は特に変だったわけじゃないからな。(人としてどうかは置いといて)#鎌倉殿の13人
2022-07-24 21:25:00また、「鎌倉殿〜」ではくだんの女性は景盛の「妻」の設定だが、吾妻鏡だと「京から招いた妾」となっている。
詳しくは吾妻鏡の正治元年(1199)7月10日〜8月20日辺りを参照して欲しい。
吾妻鏡入門 正治元年(建久十年)己未(1199)
しかし吾妻鏡に書いてる内容についても、不自然さが感じられるのは拭えない。
研究者の間でも「曲筆が含まれるのでは」「事件自体が創作」等と疑う見方が多い。
にわかに信じがたい話である。頼家の横暴を強調し、景盛が比企氏を裏切り北条氏に与したことを合理化するために創作・脚色された逸話であろう。
告げ口、根回し、多数派工作...北条氏の面々による謀略の数々(呉座 勇一) | 現代新書 | 講談社(3/3)
他の史料が存在しないため真相の解明は困難だが、二人(頼家・景盛)が不仲であったこと自体は確実と思われる。