市川崑の映画に関する本人の一言集(デビュー作から『東京オリンピック』まで)

引用・要約元は『完本・市川崑の映画たち』(市川崑+森遊机、洋泉社、2015年)。
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砂手紙 @sandletter1

46・『ど根性物語 銭の踊り』(1964年)  家を建てるのに大映に借金をして、お金が必要なので作った。『東京オリンピック』(1965年)の撮影準備とか春闘とかがあって、いろいろ大変だった。どんな映画を撮っていても、僕は僕ですよ。

2022-10-15 22:11:28
砂手紙 @sandletter1

47・『東京オリンピック』(1965年)  読売映画社の社長・田口助太郎さんに頼まれて、大映永田社長に白紙委任したら「どうしてもお願いしたい」ということで撮ることになった。1964年の4月の末に銀座の事務所に行ったら田口さんの他に事務と会計係のあわせて3人しかいなくて唖然とした。(つづく)

2022-10-15 22:12:22
砂手紙 @sandletter1

48・(つづき) こんな映画のシナリオは誰もがはじめてだったけど、3時間位内ですべての種目の決勝が入るようにという条件つきで書いた。『民族の祭典』はだいぶ参考になったけど、後撮りを堂々と見せているな、と思った。(つづく・2)

2022-10-15 22:14:20
砂手紙 @sandletter1

49・(つづき・2) フィルムはケチケチしていられないので、コカ・コーラとオリベッティと石油会社にスポンサーになってもらったので、さりげなく商品が出ている。赤坂離宮の本部から毎日カメラ百台ぐらいとスタッフが出ていって、みんなでラッシュを見た。(つづく・3)

2022-10-15 22:15:14
砂手紙 @sandletter1

50・(つづき・3) 富士山をバックに走るところとか、聖火ランナーのところはけっこう後撮り。競技の撮影には二千ミリという超望遠レンズも用意したが、実際に使ったのは千六百ミリぐらいが限度。百メートル競争はハイスピードカメラを使用したが、音がうるさいので毛布をかぶせた。(つづく・4)

2022-10-15 22:16:03
砂手紙 @sandletter1

51・(つづき・4) マラソンのアベベ選手は伴走車にカメラ4台で撮り、バレーボールの決勝はカメラ30台で撮った。ラッシュのフィルムは全部白黒で70時間。それを四分の一ぐらいだけカラーにしてもらって、3時間の映画にした。(つづく・5)

2022-10-15 22:16:52
砂手紙 @sandletter1

52・(つづき・5) 撮影後から映画公開までは4か月あったんだけど、家にまで持ち帰って毎日編集。4時間欲しいカットを探して、つなぐのはたった十分。(つづく・6)

2022-10-15 22:17:57
砂手紙 @sandletter1

53・(つづき・6) 記録か芸術かということで揉めることになった河野一郎オリンピック担当大臣の試写での談話は新聞の三面記事で、記録映画としては気に入らないという報道だったが、高峰デコ(秀子)ちゃんが中に入って直接話をうかがうことができた。(つづく・7)

2022-10-15 22:18:42
砂手紙 @sandletter1

54・(つづき・7) どうも自分が期待した競技(乗馬など)のシーンが少なかったことが気に入らなかったらしく、それを隣の東京都知事に「芸術かもしれないが記録じゃない」と言ったら新聞記者が勝手に書いたということらしい。直接話したらわかってもらえた。

2022-10-15 22:19:13