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追記
@sandletter1 すみませんが、拙著完本市川崑の映画たちからの引用の範囲を大幅に超えている上、ニュアンス違いも散見されます。刊行時にはスルーしましたが、今回は 至急、お取下げをお願いいたします。 森 遊机+崑プロ(代)
2022-10-15 22:57:51引用に関しては「出所の明示」「オリジナル性の付与」以外の「範囲」に関する判例は不明でしたので、このままにしておきます。「ニュアンス違い」に関しましてはご指摘いただければ追記・訂正します。 twitter.com/ym_belmondo/st…
2022-10-15 23:48:02@ym_belmondo twitter.com/sandletter1/st… この対応で合意形成が不可能な場合は「至急」と判断できる範囲内で(土・日曜があるので週明け早々ぐらい、という判断です)、あなたが著作権者であると確認できる何かを添えてご連絡ください。
2022-10-16 00:24:09とのことなので、今後の展開によってはツイートとまとめに対する対応を考えます。
2・『花ひらく 眞知子より』(1948年) 原作者の野上弥生子は、主演は杉村春子がいいとしか言わなかったけど、市川崑が「野上先生」じゃなくて「野上さん」としか呼ばなかったことを気に入って原作を渡した。
2022-10-15 21:45:243・『三百六十五夜』(1948年) 芥川龍之介原作の「偸盗」を『羅生門』という題名で撮りたかったんだけど、新人の2作目でそんな超大作は無理だった。プロデューサーの児井英男さんに話したら、「その前にひとつ、これはどうかね」と言われて作った。
2022-10-15 21:45:595・『果てしなき情熱』(1949年) ウィリアム・ワイラーの『我等の生涯の最良の年』のパン・フォーカスが評判になったので自分もやってみたが、老眼鏡を使ったためカメラも被写体も動かせないショットしか撮れなかった。
2022-10-15 21:46:526・『銀座三四郎』(1950年) 前作の失敗でくよくよしてるところを、青柳信雄さんがすかっとする映画の脚本を持って来て勧められたので作った。 ・『熱泥池』(1950年) 奈良の新東宝のスタジオで撮影の途中、夜中に火事になり、夢中で消しているうちにギックリ腰が治った。
2022-10-15 21:48:067・『暁の追跡』(1950年) 警視庁の協力で、新橋の駅前にあったポリスボックスを使ってロケ撮影をした。撮影中に池部良ちゃんとかが本物の警察官と間違えられて道を聞かれたりした。
2022-10-15 21:48:378・『夜来香』(1951年) 当時の宝塚のスターだった久慈あさみを主演にした映画第一作を、親友の高木二郎プロデューサーに頼まれて作った。 ・『恋人』(1951年) 当時の新東宝は金がなくて、バス代がないので撮影中止ということもあった。そういう日にはキャッチボールをしていた。
2022-10-15 21:49:2810・『盗まれた恋』(1951年) 夏十(市川崑の妻)さんと喜劇の勉強をしていて、ようやく成果が出たかな、という作品。ジョセフ・L・マンキウィッツ『三人の妻への手紙』に感動していた。
2022-10-15 21:50:4511・『ブンガワンソロ』(1951年) 自分が知らないうちにどんどん別の人間が撮影していて、自分の知らない映画になった。これがきっかけで新東宝を離れることになった。
2022-10-15 21:51:1712・『結婚行進曲』(1951年) できるだけ早口でしゃべるように俳優さんたちにお願いした。日本映画で僕が狙うスピーディーな映画を作るのはむずかしい。 ・『ラッキーさん』(1952年) アメリカのオムニバス映画『百万円貰ったら』のルビッチ監督の話はサラリーマンの悲哀が出てて面白かった。
2022-10-15 21:51:4813・『若い人』(1952年) 1937年の豊田四郎監督のものも見事だけど、それにはない戦後のものとか親子関係とかを入れてみた。
2022-10-15 21:52:2214・『足にさわった女』(1952年) コーちゃん(越路吹雪)の個性をうまく生かしたいと思った。ところで増村保造君は作品的にド近目なのでもっと客観視できるようにしたほうがいい。
2022-10-15 21:53:2215・『あの手この手』(1952年) 一本だけということで、大映京都撮影所で作った。スタッフは最高に良かったが、時代劇中心のスタジオなので現代劇を作るのは小道具の紅茶茶碗ひとつにしても苦労した。
2022-10-15 21:53:4516・『プーサン』(1953年) 日比谷の交差点も、銀行の札束もロケで取った。銀行は日本橋の日本銀行本店で、札束を数えるところは本物の女子行員だが、スタッフ全員がその手さばきと「あるところにはあるもんだなあ」と札束に見とれた。
2022-10-15 21:54:1017・『青色革命』(1953年) 三國連太郎は木下恵介『善魔』で観て、チャンスがあったら使いたいと思っていて、この映画ではじめて出てもらった。
2022-10-15 21:54:5118・『青春銭形平次』(1953年) プロデューサーの田中友幸さんに、大谷友右衛門さんの作品で一本作って欲しいと言われて作った。原作の野村胡堂には、イメージが壊れるからという理由で断られたところを、原案ということでなんとかお願いした。
2022-10-15 21:55:2520・『わたしの凡てを』(1954年) ミス・ユニバースで第三位になった伊東絹子さんの主演でプロデューサー(滝村和男)に頼まれて作った。あんまりナヨナヨしている感じの人ではなかったので、うまくメロドラマにはならなかった。
2022-10-15 21:56:28