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21・『億万長者』(1954年) はじめてアリフレックスというカメラを使って、使いやすかったので自分でも一台買った。映画は青俳(青年俳優クラブ)の自主製作で、新東宝がラストショットをカットしたら買うと言って、それで青俳が売ってしまったので、監督の名前はクレジットから外してもらった。
2022-10-15 21:57:2423・『青春怪談』(1955年) 相当な監督料を積まれて日活で作った。高木二郎プロデューサーがやはり日活で、『ビルマの竪琴』の映画化権を取ったというので、それが作りたいのもあって移籍した。
2022-10-15 21:58:1924・『こころ』(1955年) 久板栄二郎さんが書いた「こころ」のシナリオに惹かれて作った。20日間で作り、批評家の評判も悪くなかったが、当時のキネ旬ベストテンは暖簾街で、老舗の作品しか入らなかったのでランク入りできなかった。
2022-10-15 21:58:4925・『ビルマの竪琴』(1956年) 語り手が水島について語るラストシーンは、このときもリメイクのときも削れと言われたが削らなかった。この語り手のヒントはビリー・ワイルダー監督『第十七捕虜収容所』だった。(つづく)
2022-10-15 21:59:2126・(つづき) ビルマロケの渡航申請が延々通らないので、しょうがないので公開にあわせて第一部を作り、ロケ終了後総集編を作ろうと思ったら、会社側がそれでは第一部のフィルムが無駄になるからということで、第二部ということで作ってくれないかと言われて激怒して日活をやめた。
2022-10-15 21:59:5727・『処刑の部屋』(1956年) 名カメラマン宮川一夫さんと仕事がしたくて大映に移った。この映画は太陽族映画ということで朝日新聞の井沢淳氏と論争になった。石原裕次郎を『狂った果実』の主演の前にこの映画で主演にしようと思って会ってみた。
2022-10-15 22:00:4128・『日本橋』(1956年) イーストマン・コダックで撮った自身のカラー映画第一作だが、さばけた会社だったんで名前が大映カラーになった。全部を作りものの色で表現することにした。セット内の暑さが大変で俳優の顔が真っ赤になって困った。
2022-10-15 22:01:1229・『満員電車』(1957年) 終始ドタバタにすればよかったんだろうけど、日本人にはそういうのを演じる体質がない。あと観念的なところが残って失敗した。
2022-10-15 22:01:3630・『東北の神武たち』(1957年) 東宝スコープの第一回作品。三船敏郎君の出演は、映画があまりにも汚いからというので三船君の奥さんが反対してかなわなかった。シネスコは面白かったけど、ピント操作には苦労した。
2022-10-15 22:02:0631・『穴』(1957年) 原作はハヤカワ・ポケット・ミステリの『すばらしき罠』。本格推理じゃなくて倒叙ものは先に犯人がわかってしまうので、そのあと観客を引っぱっていくのがしんどかった。石原慎太郎も出て一曲歌ってる。僕が好きなミステリーはジェームズ・ヒルトンの『学校の殺人』。
2022-10-15 22:02:5432・『炎上』(1958年) 三島由紀夫さんの原作を読んでみたけど、とても映画化は難しいので創作ノートを使わせていただきシナリオを書いた。実在の金閣寺の老師が映画化には強行に反対したが、金閣寺の名前を出さないということにしたらあっけなく許諾してくれた。(つづく)
2022-10-15 22:03:3133・(つづき) 宮川一夫カメラマンとは初仕事。最初は主役を川口浩君で考えていたんだけど、大映の永田社長がなぜか反対して雷ちゃん(市川雷蔵)になった。
2022-10-15 22:04:0334・『さようなら、今日は』(1959年) 当時のヒット曲「有楽町で逢いましょう」とその映画のヒットに続けて作った二番煎じの映画だけど、ひと工夫してみようと小津安二郎さんの演出を少し真似てみた。
2022-10-15 22:04:2935・『鍵』(1959年) 原作を読んで実に映画的な文学だと思った。淀川長治さんの推薦で僕が撮ることになって、原作料は百五十万円という、当時としては大金だったが自分の金で映画化権を買った。当時はフランス映画を意識していて、あまり日本映画っぽくなかったので海外での評判は賛否両論だった。
2022-10-15 22:04:5336・『野火』(1959年) 英ちゃん(船越英二)は絶食してて撮影初日にぶっ倒れた。しょうがないので復帰するまで四十日待った。風の音といった効果音は意識的に入れてみた。
2022-10-15 22:05:4837・『女経 第二話・物を高く売りつける女』(1960年) 主人公の流行作家は三島由紀夫さんがモデル。久しぶりに洒落た映画を撮りたいなあと思っていた。
2022-10-15 22:06:1738・『ぼんち』(1960年) 市川雷蔵君が持ってきた企画で、夏十さんが滅茶苦茶に面白いシナリオにしたが、撮影始めて一週間ぐらいのときに山崎豊子さんを撮影所に招待したら、いきなり「(原作と違いすぎているので)映画にするのをやめてください」と言われたが、もちろんやめなかった。
2022-10-15 22:06:3639・『おとうと』(1960年) 水木洋子さんの脚本をやりたくて、粘り勝ちしてやることになった。トップシーンの雨傘のくだりは脚本に追加して入れて、ラストの音楽は夏十さんが珍しくウェットな気持ちになって入れることにした。キネ旬ベストテンで一位になったときは「やった!」と思った。
2022-10-15 22:07:4040・『黒い十人の女』(1961年) 何か一本自由に作れってことで作った。屋内で超望遠レンズを多用したり、ハンディカメラを使ったり、いろいろな試みをいっぺんにやろうとしたがうまくいかなかった。夏十さんに申し訳ない。
2022-10-15 22:08:4341・『破戒』(1962年) テレビ放映のラスト2回を大映の永田社長が見て感動してくれて、雷ちゃん(市川雷蔵)で撮った。テレビ版のときは主役の丑松(市川染五郎)が告白するシーンで子供たちが号泣しすぎてうまくいかなかったので演出を変えた。お寺の鐘は実にいいものです。
2022-10-15 22:09:0242・『私は二歳』(1962年) 長女がちょうど二歳だったので、育児書を原作にして作った。子供はオーディションで決めたけど、無理なことはさせられないので、どこかで僕の集中力が不足しちゃった映画になっちゃった。
2022-10-15 22:09:3943・『雪之丞変化』(1963年) 長谷川一夫三百本記念映画。永田社長と大映の社長室で俳優論の話をしていて、そこから長谷川一夫さんの家に電話して即決だった。原作が少し古い気がして、挿絵の岩田専太郎さんの絵を見ながら考えた。(つづく)
2022-10-15 22:10:1044・(つづき) 当時五十いくつの長谷川さんを撮るのに、カメラマンの小林節ちゃんと、照明は大映京都の岡本健ちゃん(健一)にやってもらった。長谷川さんが選んだ衣装は柄がゴツイものばかりだったが、そのほうが顔のゴツさをごまかせるという長谷川さんの計算だった。
2022-10-15 22:10:4545・『太平洋ひとりぼっち』(1963年) 本物のヨットと同じく撮影用のマーメイド号にもエンジンをつけなかったので、撮りたいシーンがうまく撮れず苦労した。ヨットはふたつ作って、ひとつは船便で送ってあとから撮った。
2022-10-15 22:11:09