臨済禅と真宗の対話 -汝自身に聞け!は弥陀に任せること?

Twitter上での法友と私が勝手に思っているお二人が鈴木大拙博士顔負けの、或いは松原泰道さんお得意の妙好人の禅機の法話顔負けの対話を始められて今日の朝から午前中私は釘付けになった。実はこういう押しつけがましくない宗教体験をどう語っていくかは日蓮宗にはとても重要なことなのだ。でこれは残しておきたいとこれまた勝手にトゥギャラせていただいた。お坊さんや仏教の専門家ではない仏教ファンのかたにぜひもう一度読んで戴きたい。ってそんなフォロワー私にいるのか?って話だけど。
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@jissouji

おはようございます。

2010-05-12 05:38:34
@kikyousan

雅楽ないのですか。それじゃ雅楽は日本で発達したのですかねぇ。少なくとも中国伝来ですから、何かしらの影響はあるはずだとは思いますけれども。黄檗宗さんなんかはもろに中国って感じで良いですね~。南無RT @jissouji: 臨済には雅楽はないですねー。大体にして中国式なんです。

2010-05-12 07:19:00
@kikyousan

『十王経』(唐時代)の閻魔様や下部はスタイルが中国人ですものね。ただ、その中身は飾りはあれども仏教の真は得ていると思います。個人的に禅宗さんのスタイルはカッコイイので好きです。若い人に人気がありますものね。南無~ @jissouji: 臨済では使いませんが、曹洞宗では正式には足

2010-05-12 07:24:32
@jissouji

真宗では念仏一万回唱えるとかいう行はないのですかね?RT @kikyousan 自分を見つめることに日本人は慣れていないので(私も含め)、自分の心から眼を離さないようにと。合掌RT @tsutosh: 心の赴くままにして、則を越えず、でしたね。

2010-05-12 07:26:57
@kikyousan

「念を継がず起こさず」真宗的に言えば、拾う念が智慧であり、その智慧に出会う事によって初めて念を持ち続けていた自分の姿が明らかになると。凡夫は捨てよと言われても、何を捨てて良いのかすら見えないので。RT @jissouji: 拾う念と捨てる念があると言う事でしょうか?

2010-05-12 07:29:43
@jissouji

そういう認識は無いですが、外人の受けは良いようです。思うに単純明快ですからね。RT @kikyousan 個人的に禅宗さんのスタイルはカッコイイので好きです。若い人に人気がありますものね。

2010-05-12 07:32:14
@jissouji

禅宗的には拾う念と言うのは無いです。RT @kikyousan 「念を継がず起こさず」真宗的に言えば、拾う念が智慧であり、その智慧に出会う事によって初めて念を持ち続けていた自分の姿が明らかになると。凡夫は捨てよと言われても、何を捨てて良いのかすら見えないので

2010-05-12 07:33:58
@kikyousan

生活すべてが行でございますので、「さぁ一万回称えましょう」というのはありませんね。お念仏は仏様(智慧)との対話、自己との対話でございます。一万回仏法聞いても足りぬ身の上。RT @jissouji: 真宗では念仏一万回唱えるとかいう行はないのですかね?

2010-05-12 07:44:36
@kikyousan

外国人が重視するのは「体験」ですものね。もっとも、この体験というものはとても大事だと思います。日本もそうなっていくのでしょう。南無RT @jissouji: そういう認識は無いですが、外人の受けは良いようです。思うに単純明快ですからね。

2010-05-12 07:45:51
@kikyousan

浄土真宗は自分の体験から出発する受け身的表現が多いのが特徴です。仏法にも「出会わせていただいた」自己を知るのも「知らせていただいた」と言います。智慧が自らには無い前提があるからでしょう。仏法を求めても出会えない故に。南無RT @jissouji: 禅宗的には拾う念と言うのは無いで

2010-05-12 07:50:19
@jissouji

そこがもうしがみついている。コップの中を空にしないと水は入りません。凡夫だから等と言わず、素直にハイと言う事が、捨てると言う事です。RT @kikyousan 凡夫は捨てよと言われても、何を捨てて良いのかすら見えないので。

2010-05-12 07:50:39
@jissouji

あればもっと判りやすいのでしょうが、いきなり生活全てが行と言われても、形がなければ中々大変ですね。RT @kikyousan 生活すべてが行でございますので、「さぁ一万回称えましょう」というのはありませんね。お念仏は仏様(智慧)との対話、自己との対話でございます。一万回仏法聞いて

2010-05-12 07:53:07
@jissouji

禅でもそうです。公案の見解は自分が考えるのでは無い。向こうからやってくるのです。でもそれは自分の外からくる訳では無い。自己の本心からやってくるので、拾うとはいいません。RT @kikyousan 浄土真宗は自分の体験から出発する受け身的表現が多いのが特徴です。仏法にも「出会わせて

2010-05-12 07:56:22
@kikyousan

朝夕のお勤め、仏法聴聞。寝ても覚めてもお念仏。形というか生活スタイルが日常性を持っている感じかなと。捨てるまでは聴聞の日々かと。RT @jissouji: あればもっと判りやすいのでしょうが、いきなり生活全てが行と言われても、形がなければ中々大変ですね。

2010-05-12 08:06:45
@kikyousan

私も拾うという言葉は使いませんが、和上の味わいなのでしょうね。RT @jissouji: 禅でもそうです。公案の見解は自分が考えるのでは無い。向こうからやってくるのです。でもそれは自分の外からくる訳では無い。自己の本心からやってくるので、拾うとはいいません。

2010-05-12 08:07:58
@jissouji

余計なお世話なのでしょうが、思想的には同じなのですが、方法論が真逆なので、真宗僧侶の方は大変だなと思います。もう少し具体的カリキュラムがある方が、楽じゃないですかね。RT @kikyousan: 仰る通りそのハイという返事がお念仏。捨てるどころかすでに捨てている。南無

2010-05-12 08:08:47
@kikyousan

捨てるを浄土真宗では「まかせる」と言いますが内実は同じだと思います。気づきや自覚を「信心」と表現していますね。南無RT @jissouji:  そこらへんが「気づき」とか「目覚め」とか、禅が自覚安心を説く所以です。

2010-05-12 08:11:28
@jissouji

寝ても覚めてもお念仏というのは、行住坐臥が全て禅であるという事で共通です。でもその感覚は攝心を行う事で身に付く訳ですね。そこらへんなのです。RT @kikyousan: 朝夕のお勤め、仏法聴聞。寝ても覚めてもお念仏。形というか生活スタイルが日常性を持っている感じかなと。捨てるま

2010-05-12 08:13:05
@jissouji

そうですね。以前も申しましたが、真宗は弥陀にお任せする、臨済は自らに任せるんだと。そこは同じです。RT @kikyousan: 捨てるを浄土真宗では「まかせる」と言いますが内実は同じだと思います。気づきや自覚を「信心」と表現していますね。

2010-05-12 08:14:45
@kikyousan

とっつきにくさは公案とどっこいどっこいかもですね(^o^)「弥陀にまかせよ」これしか教えはないのですが、その過程は模索したいところではあります。RT @jissouji: 余計なお世話なのでしょうが、思想的には同じなのですが、方法論が真逆なので、真宗僧侶の方は大変だなと思います。

2010-05-12 08:18:11
@jissouji

そこは道場で具体的に実践的に真似るわけですから。外から見れば難しいですが、中に入れば日常生活の一部になりますから。RT @kikyousan: とっつきにくさは公案とどっこいどっこいかもですね(^o^)「弥陀にまかせよ」これしか教えはないのですが、その過程は模索したいところではあ

2010-05-12 08:22:31
@kikyousan

プロセスとしては聴聞という仏法を聴いて自己を見つめる所にあるように思いますね。それを生活の中にお寺参りとして組み込んだと。習慣付けた。RT @jissouji: 寝ても覚めてもお念仏というのは、行住坐臥が全て禅であるという事で共通です。でもその感覚は攝心を行う事で身に付く訳ですね

2010-05-12 08:23:14
@kikyousan

なんというか「ハシゴ」が無い感じはあります。大乗全般ですが「いきなり答え」的なものがとっつきにくさの原因かななんて。真宗は特に。RT @jissouji: そうですね。以前も申しましたが、真宗は弥陀にお任せする、臨済は自らに任せるんだと。そこは同じです。

2010-05-12 08:25:12
@kikyousan

真宗でもお寺は道場であり、実践の場ですね。その真宗的生活が崩壊した所に、真宗門徒一人もなしとなった現状があるわけですけども。RT @jissouji: そこは道場で具体的に実践的に真似るわけですから。外から見れば難しいですが、中に入れば日常生活の一部になりますから。

2010-05-12 08:29:51
@jissouji

そこが主体性に欠ける分貧弱なんですよね。学者じゃなくて真宗を代表する近代名僧ってどなたでしょう。不勉強なので西の御門主さん位しか存じないですが、「自分の言葉」で語られる方が居られたら是非読んでみたいです。RT @kikyousan: プロセスとしては聴聞という仏法を聴いて自己を見

2010-05-12 08:31:49