神聖ヒョーゴスラビア帝国の繁栄とヒョーゴスラビア連邦共和国の成立『ヒョーゴスラビアの歴史Ⅱ -中世から近世のヒョーゴスラビア- 民明書房刊』
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誰もが一度は世界史の教科書で見たことがあるはず。神聖ヒョーゴスラビア帝国の地図です。 pic.twitter.com/vRMBXqfG5C
2024-04-01 08:30:00神聖ヒョーゴスラビア帝国の成立
中世のヒョーゴスラビアには大ヤマーナ王国が栄えた。その出自は東方の秘境グンマーの騎馬民族の末裔と言われているが定かではない。 大ヤマーナ王国はムローマチ帝国と結びヒョーゴスラビアを中心として広大な版図を支配した。 pic.twitter.com/UMSmCs74cY
2023-03-18 17:39:43大ヤマーナ王国タジマニアを本拠地とし、当時の首都トヨーカは「世界の六分の一」と言われるほどの繁栄を誇った。しかしその栄華は短く騎馬民族特有の同族争いで衰え、ハターノ朝タンバゴニア公国、アッカーマツヴィッチ朝ハリマニア大公国などが分立していく。 pic.twitter.com/mxAtI6uUgQ
2023-03-18 17:41:301579年から1580年にかけて、ニッポーナの各政権を次々に崩壊させた東方の蛮族オドゥがヒョーゴスラビアに侵入した。セッツィア騎士団領が全滅。タンバゴビナではハターノ朝が潰えた。ハリマニアでも東ハリマニア公ベッチョ・ナガハールがミキー城包囲戦に敗れオデュ族に蹂躙された。 pic.twitter.com/z9Q6nEkMo3
2023-03-18 17:41:30その荒廃の中、サンドロビッチ・テルマーサ・イケーダ(1545-1613)は東方の強国エドゥのタイクーン・トクガワノフの後ろ盾もあり、1600年にヒメジグラードを拠点に全土を統一。キョーランド教皇より帝冠をさずけられた。これが神聖ヒョーゴスラビア帝国(セッツィア・イケーダ朝)の誕生とされる。 pic.twitter.com/dWQ46GrP5X
2023-03-18 17:41:30イケーダ朝は、アワジネグロ公をはじめとして周辺諸国に諸子を配し、帝国の統一を図った。しかし、サンドロビッチ・テルマーサ・イケーダの後は当主の夭折が続き王朝は断絶。後の諸王朝はヒメジグラード周辺を支配するにとどまり、王権は弱体化していった。 pic.twitter.com/pADutlKYpA
2023-03-18 17:41:31建国初期より帝国の勢力は不安定であった。南からはハチスカ朝アワオードリ帝国が頻繁に本土を狙い、マノリシャ川(馬乗捨川)の戦い(1617)でアワジマニアを失陥した。さらに本土まで上陸を図るが、両次アワジグラード包囲戦で辛くも押しとどめた。5/7 pic.twitter.com/jDv7ifdSSG
2022-10-21 19:58:59その後も王朝は頻繁に交代し、周囲の大国の干渉もあり皇帝権は弱いままであった。 イケーダ朝断絶後は七選帝侯が皇帝(厳密にはハリマニア王)を選ぶこととなり、選挙権以外にも他の帝国諸侯とは一線を画した数々の特権を有した。6/7 pic.twitter.com/uBkluqfRvr
2022-10-21 19:59:01当時の帝国は「いかなる点においても神聖でもなければ、帝国的でもなく、ましてやヒョーゴってどっからきたん?」と評されている。 民明書房刊『ヒョーゴスラビアの歴史Ⅱ-中世から近世のヒョーゴスラビア-』 7/7
2022-10-21 19:59:02神聖ヒョーゴスラビア帝国図 (改訂版) この地図は神聖ヒョーゴスラビア帝国最後の王朝であるサカーイ・ウタノカミロビッチ朝時代末期の帝国諸侯領を示したものである。1/7 pic.twitter.com/KiZ16OBTx7
2022-10-21 19:58:54シマン人の活躍
シマン人の活躍 東方の蛮族オデュ族の大移動に呼応した部族に、海洋民族として名高いシマン人がいた。 天然の良港に恵まれたシマン半島を原住地とする彼らは航海技術に長け、アタカーと呼ばれる舟を操りオーサカ湾の各地を攻掠した。 pic.twitter.com/FOoD8lfG60
2023-02-05 16:04:20神聖ヒョーゴスラビア帝国成立後、シマン人の攻掠に手を焼いたセッツィア=イケーダ朝は、彼らを懐柔して内陸に封建した。彼らは次第に海洋民族としての性格を失い、長く帝国の藩屏となった。 民明書房刊『ヒョーゴスラビアの歴史Ⅱ-中世から近世のヒョーゴスラビア-』 pic.twitter.com/3THJoBjpK0
2023-02-05 16:04:22神聖ヒョーゴスラビア帝国の諸侯
付録1 神聖ヒョーゴスラビア帝国の有力諸侯 民明書房刊『ヒョーゴスラビアの歴史Ⅱ-中世から近世のヒョーゴスラビア-』 pic.twitter.com/JV1LIIuHKZ
2022-10-22 22:09:56帝国の崩壊とヒョーゴスラビア連邦共和国の成立(New)
・帝国の崩壊 メージ革命の中心となったキョーランド皇国と、大同盟を結んだ神聖ヒョーゴスラビア帝国およびエドゥはトヴァ=フシェミンで激突した。 神聖ヒョーゴスラビア帝国、エドゥ=タイクーン国、キョーランド皇国、三帝国の皇帝が一同に会したことからトヴァ=フシェミンの三帝会戦とも呼ばれる。 pic.twitter.com/H9eENsybF1
2023-04-01 12:03:04封建体制の動揺とメージ革命は帝国の運命を決定づけた。この戦いで敗れた神聖ヒョーゴスラビア帝国とエドゥ=タイクーン政権は崩壊へと突き進む。 敗戦と同時にキョーランド皇国の後ろ盾を受けたトランスゴーラ解放軍が侵攻。さらにはオカヤマニア共和国の侵攻でヒメジグラードが陥落した。 pic.twitter.com/H8ohSf3797
2023-04-01 12:03:05・ヒョーゴスラビア革命軍の蜂起 皇帝不在で混乱する中。初代指導者ヒロブミ=イトーはコーベグラードでヒョーゴスラビア革命軍の樹立を宣言。瞬く間に蜂起は帝国全土に広がった。 そしてついに、オーサカ議定書の締結によりヒョーゴスラビア共和国は独立を認められる。 pic.twitter.com/KPVjYP1MKM
2023-04-01 12:03:08・オーサカ体制 しかし、共和国の領土はセッツィアの一部に限られ、帝国領は列強により分割された。 すなわち、 ・キョーランドの傀儡であるセーヴェルキンキ連邦 ・オカヤマニア共和国の属国ハリマニア共和国 ・ミョードウ共和国の統治下にある南アワジネグロ 自治州 である。 pic.twitter.com/bWCWo8ZbNb
2023-04-01 12:03:10・ヒョーゴスラビア連邦共和国の成立 1876年8月。ヒョーゴスラビア共和国は圧制下にあるヒョーゴスラビア民の声を受け周辺国に進駐した。 進駐は無血で行われ、進駐軍は現地ヒョーゴスラビア民の歓喜の声に迎えられたことは言うまでもない。 pic.twitter.com/MBDZFms7n1
2023-04-01 12:03:11国土回復運動は成功し、これにより現在に続くヒョーゴスラビア連邦共和国が成立した。 しかし、一部領土は未だオカヤマニアに属しており、その回収には1953年まで待たねばならなかった。(未回収のヒョーゴスラビア問題) pic.twitter.com/4dt5tzIfnj
2023-04-01 12:03:11偽史 ~ Pseudo-historia
山名家最大版図 守護国数 六分一殿(11/68) 面積 十分一殿(2.7万/29万) 石高(1598)九分一殿(202万/1850万) 人口(1600)六分一殿(187万/1227万) pic.twitter.com/QsmyjH21lP
2023-02-16 18:49:00