アートの発生と使われ方、女性に喫煙させる宣伝・PRから”ホームレス・アート”まで

アートや音楽が、宣伝・PRとして、大量消費社会で購買意欲を刺激するのに使われてきた。他方で、デモや運動系の活動で、サウンドデモやアート系の参加者等が増えてきたなど、活動の大きな力となっている。 アートの発生と、使われ方・使い方を、「女性に煙草を吸わせるため、女性の喫煙に対する社会の反感を拭う方法」や、“ホームレス・アーティスト”と名乗る いちむらみさこ氏の寝泊まりするダンボールでの”インスタレーション”などなど、についてのやり取りのまとめ。
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以下は、上記ツイートでリンク、引用されたURL:

The Century Of The Self-Full Length Documentary

To many in both business and government, the triumph of the self is the ultimate expression of democracy, where power is truly moved into the hands of the people. Certainly the people may feel they are in charge, but are they really? The Century of the Self by Adam Curtis tells the untold and controversial story of the growth of the mass-consumer society. How is the all-consuming self created, by whom, and in whose interest?

『人間の条件――そんなものない』

立岩 真也 2010/08/16 理論社→2011 イースト・プレス
http://www.arsvi.com/ts2000/2010b2.htm
http://www.arsvi.com/ts2000/20100081.htm
http://ec2.images-amazon.com/images/I/51wWsYu8BnL._SL500_AA300_.jpg
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私がものを考えて書いてきた、というか、そういう気分になったり、その力を得たりしてきたそのもとは、「学問」から来てるんではないというようなことをその本に書いて、そこですこしだけ音楽の話をしているところがある。
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で、また「Janis Joplin Summertime」でユーチューブを見る。すると、1969年のストックホルムでのライブ、同じ年のアムステルダムでのライブ、同じ年のフランクフルトでのライブ、などを見る・聞くことができる。ただ、結局、『チープスリル』に入っている「サマータイム」が一番よいように思った。短い間に消耗したのもあるのかもしれない。こういうふうに歌う人だと、同じ歌を同じように歌えなかったりする。そしてジミ・ヘンドリックスは、1972年生まれで、よく知られていることだがジャニスと同じ一九七〇年に死んでいる。やはり異常に詳しいウィキペディアの記事によると、こないだのマイケル・ジャクソンの一件のときもそうだったが、死んだ事情についても諸説あるらしいが、彼の場合は睡眠薬と酒をいっしょに大量にということであったらしい。
  薬物が演奏・歌を高めるといったことは明らかにあるはずだ。そんな演奏はにせものだとか言っても仕方がない。薬が作用してすごい演奏になることは実際にある。本人たちも死にたくはなかっただろうし、死なないように、死なない程度にやってもらいたかったとは思うし、実際そんなぐあいにやって来れた人たちもけっこういる。ただいつもそうそううまくいくものでもない。まともに演奏できなくなってしまうこともあるし、死んでしまうこともある。チャーリー・パーカー(34歳で没)だってもっと長生きしてほしかったのだ。「夭折の天才」という言い方を私たちはよくする。してしまう。こういうことをどう考えてよいのか、わからない。
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今度の本読んでもらってもわかるように、私は「細く長く」派で、それでよいと思っている。そのことは、私の仕事がどうであるかということとは基本関係ないのだが、ただ私のような仕事をする人間の場合、かなりできのよい人でなければ、一定の仕事をするのには手間がかかるということもある。そしてまあしらふでないと、ものを書いていくのは難しい。
  他方に、すごく短い時間を「駆け抜けた」人がいる。実際には、あの時、げろを吐けない程飲まなければ死ぬことはなかったのに、とか、突然売れ出しておかしなことになって、とかそんなことでたいがいのことは起こっている。あの何年しか生きてなかったから「伝説上の人物」に祀り上げられてしまって、ということもある。ただ、そうやって冷静になった上でも、命を削って、みたいなこともあることがなくはないのだろうと。結局、よくはわからない。ただそういうものを聞いて、「私(たち)は正しく、勝利しており、肯定されてよく」、「おおよそどうのこうの世間が言われていることはどうでもよい」(98頁)と思ったのだった。そしてその上で、「そのずっと後にいて、退屈な、でも必要だと思う仕事をする」(14頁)、そう思って仕事をしてきて、この本も書かせてもらった。というわけで、今回の本は、こういう話とか、学生の頃になにをいろいろと血迷っていただとか、恥ずかしめの話がいくらか混じってしまっている。ただそういうこともあってよいように思って、書いてしまった。

 

ひじじきき @hijijikiki

"いちむらみさこ(ホームレス・アーティスト)1 2009.04.30 Thu 1・ひるまずファンタスティックに生き延び、そして、その場を共有すること。 文:中西美穂" wan.or.jp/article/show/3… @wansmtさんから

2017-11-09 03:42:49

リンク切れのため、新たなリンクを以下に表示します:

https://wan.or.jp/article/show/332


いちむらみさこ(ホームレス・アーティスト)1

http://wan.or.jp/art/?p=57

※ 文中[i]斜字体[/i]部分は2009年10月2日、ブルーテント村でのインタビュー時のいちむらみさこの発言。

 いちむらみさこは、東京都内の公園にあるブルーテント村に住み、時に高架下や駅のダンボールハウスに寝泊まりしている、1971年生まれのアーティスト。ブルーテント村での日々を綴ったドローイング&エッセイ集『Dearキクチさん、ブルーテント村とチョコレート』 を2006年に出版し、2007年7月にロンドンで開かれたホームレスアートフェスティバル『ten feet away international』に現役ホームレス・アーティストとして招待され、同年10月よりホームレスの女性達と布ナプキンをつくるプロジェクト『ノラ』を主宰している。

 いちむらは、自分自身がブルーテント村やダンボールに寝泊まりしていることから、“ホームレス・アーティスト”と名乗る。そのアート活動は、絵画作品や彫刻作品を発表するという形式ではない。最初は、絵やパフォーマンスやちょっとしたパーティーなのだが、結果的には顔見知りの人々に留まらず、見ず知らずの人々にも広く強く訴えかける。視覚的で、空間的で、参加型で、時間をも味方にする、彼女の“アート”は、社会的排除に強く反対する。しかし、見かけは、ほんわかカワイイ系で、エコ系で、ヘタウマてづくり系。そんないちむらの“アート活動”は、どのような場から生まれ育まれるのであろうか。またそこで、アーティスト自身は何を思っているのだろうか。[u]ホームレスの暮らしは、女性と男性とで何が違う?[/u]
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[u]《R246星とロケット》[/u]

 その高架下でダンボールハウスに原因不明の火災が起こった。事件として新聞記事にならない小さなものだったかもしれないが、炎が上がり、そのあたりの壁と床は焼け煤で真っ黒になった。その前日の渋谷でのホームレス閉め出しに対する抗議行動に関係しているように考えられなくもないが原因はわからない。火災にあったダンボールハウスの男性は、幸いにも外出中で難を逃れたが、その後怖くてそこで寝泊まりすることができなくなったと言う。

[b][i]「その焼け煤の真っ黒さと、ファンシーな“壁画”(前述の高架下もの)、その光景がうまく言葉にできないけど、これはちょっと、このまま、ただ闇として焼け煤を残すのは、いろんなものが吸い込まれて行くブラックホールになるような気がした。これをないことにするは、すごくイヤ。
この焼け煤をつかって、何かしようと思い、その焼け煤の前で野宿をはじめた。」[/b][/i]

 いちむらは、その焼け煤が流れ星の尾に見えるように、コートの背中に黄色い大きな星のアップリケを縫い付けて焼け跡で野宿をはじめた。

 何泊かしたが、12月の東京の屋外は、寒くて眠ることができない。寒さをしのぐ為にダンボールに入って眠ることにした。ダンボールに入って眠るとコートにアップリケした星が外から見えない。焼け煤を星の尾に見せるのが野宿のコンセプトなのでダンボールの外に星を一つ出した。

 ダンボールに入ってみてわかったことは「人が入っていると想像できるのに、蹴りたくなる通行人が多数いる」ということだ。ダンボールの外から殴られ、蹴られる。一方的な暴力を体験し、いちむらは落ち込みつつも対策を考えた。

[i]「銀紙で星をつくって、ダンボールや、焼け煤で黒くなった地面につけた。その空間をキラキラさせて防衛しようと考えた。通行人が「なんだこれ」と言っていた。段ボールの中にいた私は「なんだこれ」と思われる方が蹴られないと思った。足音が近づいては通りすぎていく。何もしないでくれとダンボールの中で思う。女の人のハイヒールの音がした。(彼女は)「何これ、かわいい」と言った。「かわいいだけじゃない」と思った。(星を)見ててくれればそれで蹴られない。」[/i]

 しかし15泊目の夜、星のインスタレーションは、箒を持ったおじさんに掃かれてしまう‥‥。

[b][i]「しょっちゅう掃除するホームレスのおじさんがいる。そのおじさんが、私のガード下にもやってきて、私が(ダンボールハウスで)寝ている間に、ほうきで星を全部掃いてしまった。
その夜、自転車に乗った若者が、隣のダンボールのおじさんがもっていたパイプイスを、私の寝ている段ボールに投げつけた。びっくりした。そのまま自転車でその若者は通りすぎていった。かなりへこんだ。どこまで暴力!!!」

「落ち込んでいる時、近所のダンボールで寝ていた人達が、自分のダンボールハウスを“ロケット”と呼んでいること思い出した。勇気が出た。一緒に暴力にさらされている中、お互いのダンボールハウスを“ロケット”と呼び合っている。」[/b][/i]

 ダンボールハウスを“ロケット”と呼び合っていることは、少し前に知っていた。暴力を何度も体験する中で、いちむらは周辺に寝泊まりするホームレスたちの「“ロケット”イメージの共有」の重要さを考え始める。
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