「セクハラ」「公共性の引力」そして「不快を表明できる自由」について
@tibizu @thedenkiya ただまあ、あまり深く知らない人を相手にするときは、類型的に人を見なければならないときもあるのですが。その辺が難しい。
2011-11-01 00:44:53@wagu108 @thedenkiya ですです。「環境型セクハラ」に違和感を覚えるのはそこで、他者がハラスメントであるか否かを判断する場合、「自分が不快であるから当事者も当然不快であろう」としてしまう場合があって、それはすごく暴力的なことだと思うんですよね。
2011-11-01 00:53:00@wagu108 @thedenkiya そう、実際にはそうなんですよね…。だからもし構造的な強制力を問題にするなら、「不快を表明出来る自由」が担保される社会を目指してみてはどうかなぁとぼんやり考えています。多様性を許容するために、衝突を前提にして欲しいというか
2011-11-01 00:59:37@tibizu @wagu108 なるる。気を使われる空気自体がイヤってこってすね。了解しました。実際適度に無神経なくらいのがナニかとラクではありますよね。
2011-11-01 01:05:32RT @tibizu: @wagu108 @thedenkiya ですです。「環境型セクハラ」に違和感を覚えるのはそこで、他者がハラスメントであるか否かを判断する場合、「自分が不快であるから当事者も当然不快であろう」としてしまう場合があって、それはすごく暴力的なことだと思うんですよね。
2011-11-01 23:11:33RT @tibizu: @wagu108 @thedenkiya そう、実際にはそうなんですよね…。だからもし構造的な強制力を問題にするなら、「不快を表明出来る自由」が担保される社会を目指してみてはどうかなぁとぼんやり考えています。多様性を許容するために、衝突を前提にして欲しいというか
2011-11-01 23:11:38セクハラは言動を受けた人の主観によることが多く、言動を発した人は気づいていないことが多いので特に注意を要します。例えば・・・「きれいだね」と言う軽い言葉でさえ言われた本人が「いやだな」と思った時点でセクハラになります。 http://t.co/5VGEkP56
2011-11-01 23:12:15本人が「いやだな」思った時点でセクハラになる。というのが、本筋で、その辺を他人が慮るのは難しいものだが、しかし逆に言えば、何がセクハラに当たるかは本人が決めることだ。誰かが勝手に決められることではない。
2011-11-01 23:13:32誰かが勝手に「自分が不快であるから当事者も当然不快であろう」というのは暴力的だ、とtibizuさんはいうのだけど、これはどういう暴力か?
2011-11-01 23:14:22職場に裸体画があったとして、ある人がセクハラだから外してくれと言った。訴えは受け入れられ、絵は撤去された。ここで、「セクハラだから」という言葉は「私にとって不快だから」ではなく「職場の女性みんなにとって不快だから」と響いたかもしれない。だから訴えられた側にとって強制力があった。
2011-11-01 23:17:43本当に「職場の女性みんな」が不快に思っていたとは限らない。だけど、「セクハラだから」に強制力があったのは、「女性みんな」の同意があったと暗黙のうちに見なされたからだ。この「勝手に同意を得てしまう」ところが暴力的なんだろう。
2011-11-01 23:18:27不本意にも、「同意」を得られたために変容してしまった職場というのは、同調圧力がある。「同意」によって「性的なもの」を排除した場所では、自分自身のふるまいにも義務が課せられる。実際には同意していないのにもかかわらず。
2011-11-01 23:19:35その暴力を避けるためには、各々が「不快を表明できる自由」が担保される社会を目指すべきであり、多様性を許容するためには、衝突を前提とすべきである、ということになるのだろう。
2011-11-01 23:21:14RT @showitch: @wagu108 「不快を表明できる自由」があるとして、自分が感じた不快をどこまで説得的に言語化して解体できるか、が問題になると思います。というのは、不快感それ自体に同調「引力」があり、「セクハラだから」とだけ言う人は、この「引力」を利用しようとしているように見えるのです。
2011-11-02 22:26:14「不快感の表明」が引力を持つのはなぜだろう?セクハラ、またエロ漫画でも同じだろうが、ごく私的な領域や仲間内では問題のないことが、公にされることによって問題とされるというのが基本であるように思う。(続)
2011-11-02 22:27:59自室でエロ漫画を読むことは何でもないが、電車の中で読むことは問題であるというように。猥談にせよエロ漫画にせよ、公共性の高い場所での取り扱いは常識的に制限される。(続)
2011-11-02 22:28:40時間という軸もあって、猥談ばかりしていたり、エロ漫画読んでばかりするのはよろしくない。それはひとときの気晴らしのため、限られた時間において許されるのであり、長い目で見ればそれらは低俗な喜びであるというのが一般的な扱いではないか。
2011-11-02 22:29:29行為が認められる範囲を、時間、空間において拡張すればするほど、行為は「立派である」ことを要求されるし、その延長には「汝の格率が常に同時に普遍的立法の原理となるように行為せよ」というのもあるんだろう。(続)
2011-11-02 22:30:42「不快です」が「セクハラだから排除すべし」という意味になるとき、ここは「公共」の空間であるから、そんな行為は許されない、ということを言っている。これはとても強い説得力を持つ。だけど、このとき誰が「公共」を作っているのかということを忘れがちだ。誰か忘れていませんか?(続)
2011-11-02 22:31:54職場でこっそりエロ漫画を読むような人が「公共」から除外されそうなのは、公共というのは広く取れば取るほど、普遍的で倫理的に厳格、つまり体裁がよくて格好良い。そういう意見は通りやすい。そしてこれが「引力」だろう。ということではないかなあ。
2011-11-02 22:32:33表現規制で海外からの非難が都合よく利用され、それが一定の説得力を持つのも、「公共」「普遍性」という「引力」があるからだろう。「うちはうち、よそはよそ」とは言い難い。ただ、文化の違いと言っていい場合は多々あると思うけれど。
2011-11-02 22:37:54「公共」ということでぼくたちがイメージするものには「引力」がある。でもそれは、本当は架空のものではないか?であるならば、やはり各々が「不快を表明できる自由」が担保される社会を目指すべきであり、多様性を許容するためには、衝突を前提とすべきで、真の公共がそこにあるということだろう。
2011-11-02 23:02:13個々人の頭の中に「公共性」というイメージってあるのだと思うが、実際に意見を交換したり戦わせた結果浮かび上がる公共のほうが、正当であるような気はするし、頭の中の「公共性」に抑圧されるとしたら、ましてや「公共性」を根拠に誰かの行動を制限しようとするとしたら、やはりおかしい。
2011-11-02 23:22:21しかしまあ、万人がもっていると期待される良識、というのも確かにあって、その辺は「頭の中の公共性」とほぼ不可分であり、それで社会がまわっているという側面もありそうだし、簡単にわりきれる話ではなさそうだなあ・・・
2011-11-02 23:38:56