「スピノザ」 國分功一郎

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GMBO2008 @GMBO2008

善および悪の認識は、我々に意識された限りにおける喜びあるいは悲しみの感情にほかならない。(第4部定理8) 「エチカ」 スピノザ

2023-06-04 22:48:24
GMBO2008 @GMBO2008

見た目の簡潔さとは裏腹に、この定理の意味するところは広大である。それを理解するにはいくつかの前提を説明しなければならず、また実はここでは思想的な背景までもが問題になる。 「スピノザ」 國分功一郎

2023-06-04 22:48:25
GMBO2008 @GMBO2008

良心という善悪の審判を心の内にもっていると想定することは、善にも悪にも舵を取ることができる中立的な意識がまずあって、その上でこの意識が良心を参照して行動を決めていると考えることだ。 「スピノザ」 國分功一郎

2023-06-04 22:56:28
GMBO2008 @GMBO2008

ところがスピノザは、善と悪の判断から独立して中立的な意識が存在するという考えそのものを否定しているのである。 「スピノザ」 國分功一郎

2023-06-04 22:56:29
GMBO2008 @GMBO2008

通常ならば、自然権の発見は、社会に対する個人の優位を意味するはずであり、また他方、意識を良心から独立させることの回避は、個人に対する社会の優位を意味するはずであるのに、 「スピノザ」 國分功一郎

2023-06-06 23:17:28
GMBO2008 @GMBO2008

スピノザにおいては、この発見と回避とが、超越的な価値を設定する国家の中で生きている個人に同時に適用されるという近代の常識に反することが起こっているのだ。 「スピノザ」 國分功一郎

2023-06-06 23:17:28
GMBO2008 @GMBO2008

これは、国家あるいは社会中で生きている個人が、あくまで具体的に、その国家やその社会やその個人の歴史の中で捉えられているということを意味しているように思われる。個人の自由は否定しようがない。 「スピノザ」 國分功一郎

2023-06-06 23:17:29
GMBO2008 @GMBO2008

だが、自由である者として考えられる個人は、常に既に、一つの歴史を持った国家や社会の中を生きている。スピノザはこの具体性にこだわっているのだ。意識と良心の関係という問題は、このように、近代国家のあり方と無関係ではないのである。 「スピノザ」 國分功一郎

2023-06-06 23:17:30
GMBO2008 @GMBO2008

人間の意識はどんな場合もまずは第一種認識から始まる。たとえ第三種認識を既に経験したことのある人物でも、かならずそこから始まる。だが人間の意識は、第一種認識から始まりつつも、変状という結果をもたらす原因について観念を形成することができる。 「スピノザ」 國分功一郎

2023-08-29 22:18:07
GMBO2008 @GMBO2008

それは感情のあり方に影響を及ぼす。 「スピノザ」 國分功一郎

2023-08-29 22:18:08
GMBO2008 @GMBO2008

自由は至福と同様、言葉で説明されるのではなくて、経験されるものである。あるいは、自由とは、第三種認識という意識のあり方がもたらす結果である。意識は我々のあり方に大いに関係している。意識は我々の行為の決定に関わっている。意識は何をなしうるか。意識は自由をもたらしうる。 「スピノザ」

2023-08-29 22:31:53
GMBO2008 @GMBO2008

だとすれば我々が本当に『エチカ』を理解したと言えるのは、我々自身が『エチカ』の言う意味で能動的に生きて、ある時にふと、「これがスピノザの言っていた自由だ」と感じ得た時であろう。 「スピノザ」 國分功一郎

2023-08-29 22:31:54