「スピノザ」 國分功一郎

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GMBO2008 @GMBO2008

確かに一つの観念から別の観念を導き出していくのは我々である。だが、然るべき出発点から、然るべき順序で観念が導き出されていくならば、その行為自体が我々にその観念が真であることを教えてくれるのである。 「スピノザ」 國分功一郎

2023-04-21 22:51:38
GMBO2008 @GMBO2008

真であることの保証は観念の獲得という行為そのものに内在している。観念が導かれていく「道」そのものが方法である。したがって、その道は観念の獲得の前には存在しない。道はただ観念を導き出す行為と一体のものとしてのみ存在する。 「スピノザ」 國分功一郎

2023-04-21 22:51:39
GMBO2008 @GMBO2008

完全な仕方で形成された発生的定義とは、観念における発生の秩序と事物における発生の秩序とが一致している定義である。存在に追いついた観念と言ってもよいかもしれない。 「スピノザ」

2023-04-21 23:04:38
GMBO2008 @GMBO2008

事物が様々な特性を有し、それ故に様々な帰結をもたらすのと同様に、定義からはその対象の様々な特性や帰結が導き出される。この発生の秩序に従って諸々の観念を導き出すことができれば、そこに現れる諸観念の秩序は存在の秩序と一致する。 「スピノザ」 國分功一郎

2023-04-21 23:04:38
GMBO2008 @GMBO2008

これこそがスピノザの方法の実現であり、方法における「然るべき順序」とはこの観念の秩序に他ならない。 「スピノザ」 國分功一郎

2023-04-21 23:04:39
GMBO2008 @GMBO2008

神の能力とは、神を貫く法則にしたがって神が作用している〈こと〉そのものである。『エチカ』においては神の存在と能力と本質が等しい。神が自然と同一視される根拠の一つもここにあるだろう。 「スピノザ」 國分功一郎

2023-05-14 23:04:06
GMBO2008 @GMBO2008

スピノザはどこかに存在しているはずの神の存在証明を行なったのではなくて、神が自然としてここに存在していることを描写しているのである。 「スピノザ」 國分功一郎

2023-05-14 23:04:07
GMBO2008 @GMBO2008

欲望とは人間の本質であり、この本質は、そのたびごとに与えられる変状によって、何ごとかを為すように人間を決定する。本質はここでも一つの力、衝動でありコナトゥスである。 「スピノザ」 國分功一郎

2023-05-14 23:13:06
GMBO2008 @GMBO2008

(中略)人間が何事かを為すのは変状によって決定されるからであり、意識とは、この変状の観念を対象ととする観念に他ならない。 「スピノザ」國分功一郎

2023-05-14 23:13:06
GMBO2008 @GMBO2008

内在原因の概念のもとで理解された時、原因はその結果によって自らの力を表現するものとして捉えられる。ならば、我々の行為が我々の力を表現している時、我々は能動的だと言うことができるはずだ。 「スピノザ」 國分功一郎

2023-05-16 22:17:46
GMBO2008 @GMBO2008

その時、われわれの行為は、「我々の本性のみによって明瞭判然と理解されうる」(第三部定義二)。能動性は力の表現と切り離すことができない。『エチカ』において、能動と受動は力の表現によって定義されている。 「スピノザ」 國分功一郎

2023-05-16 22:17:46
GMBO2008 @GMBO2008

「精神は自己の無能力を表象する〔imaginatur〕時、まさにそのことによって悲しみを感ずる」(第三部定理55)。これはその二つ前の定理と対をなしている。「精神は自己自身ならびに自己の活動能力を観想する〔contemplatur〕時に喜びを感じる」(第三部定理53)。 「スピノザ」 國分功一郎

2023-05-16 22:33:27
GMBO2008 @GMBO2008

二つの定理は対をなしていると同時に非対称でもある。スピノザは自己の無能力を「観想する」とは言わない。無能力はあくまでも表象の対象である。無能力は他人との比較によって見出されるほかなく、他人との比較は同類という表象に基づいているからである。 「スピノザ」 國分功一郎

2023-05-16 22:33:28
GMBO2008 @GMBO2008

フランスの言語理論家であり詩人のアンリ・メショニックは、同じくフランスのスピノザ研究者ロラン・カイヨウの言葉を引いてこう言っているースピノザには勇気があった。そう、勇気と言ってもよい。勇気とは警戒心と大胆さを持ち合わせている人物にこそ発揮できるものに他ならない。 「スピノザ」國分

2023-05-16 22:39:37
GMBO2008 @GMBO2008

何ごとかを主張するためには一定のコードに従わなければならない。だが、何ごとかを主張する者は、その主張を可能にするコードを完全に支配することはできない。スピノザはそのようなコードを巧みに発見し、より整合的な解釈を提示する。 「スピノザ」 國分功一郎

2023-05-24 22:45:29
GMBO2008 @GMBO2008

そのコードは文法に関わるものでもあるあるだろうし、論理に関わるものでもあるだろうし、当然、思想に関わるものでもあるだろう。 「スピノザ」 國分功一郎

2023-05-24 22:45:29
GMBO2008 @GMBO2008

信仰者一人一人が一つ一つの歴史物語を読むこと。それがスピノザの説く聖書との向き合い方である。自分の理解力に合わせて自分なりの仕方で歴史物語を読むとき、その物語は読む人に、読む人が自然に受け入れられる教えを与える。 「スピノザ」 國分功一郎

2023-05-24 22:56:28
GMBO2008 @GMBO2008

(中略)ここで述べられていることは、理解とはあくまで私的なものであるというスピノザの哲学的信念とも無関係ではないだろう。そのような私的な理解がはぐくまれてこそ信仰は根づく。 「スピノザ」 國分功一郎

2023-05-24 22:56:29
GMBO2008 @GMBO2008

ホッブスの契約が一回性のものであるとは、それが社会の始原にある絶対的な起源の説明だということである。ある種の建国神話のようなものだと言ってもよい。スピノザの契約はそのようなものではない。スピノザは契約が日々履行されるという事実そのものに注目する。 「スピノザ」 國分功一郎

2023-05-29 21:46:13
GMBO2008 @GMBO2008

契約は人びとが一つの国家の中で生きているという現実そのものを説明する。 「スピノザ」 國分功一郎

2023-05-29 21:46:14
GMBO2008 @GMBO2008

スピノザが言っているのは、法制度や理性的計算だけでは政治的秩序は作り出せないということである。政治的秩序には、法制度や計算には還元できない何かが必要である。人は単に処罰を恐れるから法律に従うのではない。 「スピノザ」 國分功一郎

2023-05-29 21:53:47
GMBO2008 @GMBO2008

また、ただ放っておけば理性的に利益計算をするわけでもない。恐怖による秩序生成も計算による秩序生成も、全く意味をなさないというわけではない。だがそれらだけに頼ることはできないし、それらだけに頼ることは望ましくもない。 「スピノザ」 國分功一郎

2023-05-29 21:53:47
GMBO2008 @GMBO2008

国家権力とは「ひとびとを国の指図にうまく従わせるために投入できる、あらゆる手段」から成り立っている〔第17章第2節〕。そうした手段として考えられるのは、処罰で市民を恐れさせるとか、見返りをちらつかせるとか、愛国心をかき立てるとか、そういったことである。 「スピノザ」 國分功一郎

2023-05-29 22:04:07
GMBO2008 @GMBO2008

だが、いかなる手段を用いるにせよ、人が権力の指図に従う時、「その人が自分独自の考えに基づいてそう決めている」〔同〕。ここに権力の決定的な限界がある。独裁者であろうとも、権力に内在する手段の限界を飛び越えることはできない。 「スピノザ」 國分功一郎

2023-05-29 22:04:07
GMBO2008 @GMBO2008

だからこそ「独裁者は自国民を一番恐れている」と言えるのである。〔同〕 「スピノザ」 國分功一郎

2023-05-29 22:04:08