原始仏教(大涅槃経)から法華経、日蓮仏法そして創価学会までを結ぶ根本的な思想 凡夫即仏

大涅槃経から法華経、そして日蓮仏法に繋がる根本的な思想に関して考察ものをまとめました。大乗非仏説、釈迦本仏論の破折、南無妙法蓮華経 日蓮と大書された文字曼荼羅に隠された意味、そして鳩摩羅什の翻訳の問題点等多岐に渡る内容を議論しています。
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komekome39 @komesandazo

togetter.com/li/1235285なぜ身延の釈迦本仏論は誤りかということを、身延流に真筆御書のみに頼り、まずは身延が正しいという仮説を説いて、その仮説の持つ矛盾を導き出し、釈迦本仏論はやはり誤りであるという答えを導き出したまとめがこれだが、この続きを呟いてみようか。

2023-04-03 22:41:25
komekome39 @komesandazo

今度はどのような方向でいくかというと、大聖人の御書はもちろん引用するが、今度は仏教の開祖である釈迦の経典に頼ることで、なぜ釈迦本仏論は誤りであるかを導き出してみようと思う。しかしながらこれには問題が生じる。身延流にいくならば、歴史上の釈迦が法華経を説いたという証拠が皆無だからだ。

2023-04-03 22:43:58
komekome39 @komesandazo

法華経は釈迦滅後数百年経って出てきた経典であり、他の大乗経典も同様だ。これが大乗非仏説の主な理由となっている。従って実は、身延のような真筆至上主義はブーメランになってしまうのだ。法華経の編集者が誰であるかは不明だが、これには二つの考えがある。一つは、大乗仏教は釈迦とは 続く

2023-04-03 22:48:10
komekome39 @komesandazo

無縁の存在であり、後世によって創作されたものであるとの考え。仮にそうだとしたら釈迦は悟りを得ていない只の人となり、釈迦本仏論は壊滅する。この場合は救世主は釈迦ではなく、法華経を説いたその人物であり、日蓮本仏論は影響を受けない。池田先生も法華経の知恵で述べていたが、 続く

2023-04-03 22:51:06
komekome39 @komesandazo

釈迦が偉大なのではなく、法華経が偉大だから、それを説いた人物、即ち釈尊は偉大なのだ、ということを主張していた。もう一つの考えは、釈迦は法華経の元となる教えをちゃんと説いており、その口伝を元に後世が法華経を編纂したというものだ。創価学会は当然後者を採用している。 続く

2023-04-03 22:53:34
komekome39 @komesandazo

それではどちらが正しいのか?それを解く鍵となるのではないかと私が期待しているのが「大涅槃教」という経典だ。これは大聖人が頻繁に引用している大乗の涅槃教ではなく、小乗に属する涅槃教であり、経典というより釈尊の人生の最後を記録した日記というべきものだ。 続く

2023-04-03 22:56:05
komekome39 @komesandazo

大聖人は真筆御書、体曲がれば影斜めなりの事(学会御書未収録)で、「阿含経こそ仏説にては候えども、又拙経なり。華厳経を説くほどの人の、阿含経をとかざるべきぞ」と小乗経を説くことを完全否定しておられる。法華経も、小乗を否定している。なぜそんなものを持ち出すのか?謗法ではないのか?

2023-04-03 22:59:57
komekome39 @komesandazo

その理由は、大涅槃教は釈尊が入滅する間際の言葉を記録しているからだ。加えて、法を説く相手が平僧侶や在家ではなく、釈尊の十大弟子であるならば、もはや小乗のような方便などを説く必要はないと考えられるからだ。その言説と、法華経に説かれていることを比較すれば良い。

2023-04-03 23:04:28
komekome39 @komesandazo

そうすれば、法華経とは釈尊に縁の経典であるか否かが判明するだろう。 大涅槃教の信頼性はどうなのか? この経典に記述された場所から釈尊の遺骨が発見されている。従ってこの日記は釈尊の最後の日々の言葉を忠実に記録した可能性が最も高いものと見做して良いだろう。

2023-04-03 23:07:34
komekome39 @komesandazo

zen-essay.com/entry/dai-pari… この大涅槃経で注目すべきは、釈尊が舎利弗と対話している時の言葉だ。釈尊は既に最晩年で、舎利弗は二大弟子の一人であり、彼に対してはもはや小乗の方便など説く理由はないからだ。 続く

2023-04-05 23:29:57
komekome39 @komesandazo

舎利弗曰く 「この世界には多くの修行僧やバラモンの祭司などがいるけれども、ブッダよりも深く真理を知り得た人物はこれまでいなかったし、これからもいないだろうと。また、現在においてもいないだろうと」 つまり、釈尊を超える人物はこの世にいないだろうと舎利弗は考えていた。しかし、 続く

2023-04-05 23:31:28
komekome39 @komesandazo

釈尊はこれを否定するのだ。 「しかしだ、サーリプッタ。これまでにも真理を知り得た人物はいた。そのような尊い人物の心を、そなたは知っているのか?」  即ち、過去には釈尊に匹敵する仏がいたということを釈尊は主張したということだ。 続く

2023-04-05 23:33:35
komekome39 @komesandazo

「これから先の未来にも、真理を知り得る人物はあらわれる。それらの尊い人物の心もまた我々他人が知り得ることはできない。もちろん、現在においても」 これは未来にも釈尊に匹敵(あるいはそれを超える仏)が出現することを釈尊は予言したと見做して良いだろう。又、この日本語訳は省略 続く

2023-04-05 23:34:51
komekome39 @komesandazo

しているが、英訳には現在の仏も言及されている。「舎利弗よ、汝は仏としての私の心を知り得ることができるのか」、と。これは即ち、舎利弗は阿羅漢に過ぎす、釈尊よりも劣る存在に過ぎないことと、現在の仏が単数になっていることから、その当時の仏は釈尊しかいなかったことを明確に示している。 pic.twitter.com/mxFUBvB5Tm

2023-04-05 23:40:11
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komekome39 @komesandazo

zen-essay.com/entry/dai-pari… 更に、入滅するその時にも全く同様のことを皆に伝えていたようだ。 「これまでの世にも悟りを開いた尊者は何人もいた。そしてそれらの尊者には、心を尽くして仕えることに専念してくれた者たちの存在があった。 ちょうど、私(釈尊)にとってのアーナンダのように。 続く

2023-04-05 23:45:58
komekome39 @komesandazo

未来の世にも悟りを開く尊者は何人も現れるだろうが、それらの尊者にもきっと、アーナンダのような侍者がいることだろう。」 これを読んで大聖人と四条金吾の師弟関係が浮かんだ人は私だけではないだろう。そして、過去、現在、未来にそれぞれ別の仏が登場するというのはまさに法華経そのものだ 続く

2023-04-05 23:47:46
komekome39 @komesandazo

天台は法華文句で、 「前仏已に居し、今仏並びに座す。当仏もまた然なり」 、即ち、過去の仏(多宝仏)と現在の仏(釈尊)が並んで左右に座り、未来の仏も宝塔に座ると説いた。即ち、釈尊以外の仏が未来に登場することを予言した。既にこの時点で身延のそれとは矛盾していることがわかるだろう。

2023-04-05 23:57:01
komekome39 @komesandazo

常識的に考えた場合、前仏(過去の仏=多宝仏)と今仏(現在の仏=釈迦)が宝塔の左右に座った時、中央には当仏(現在の仏)がこれから座ると考えるのが普通だろう。身延のように、この中央に釈尊が座ると捉えることは明らかに間違いだ。それではなぜこのような間違いを犯しているのか? 続く

2023-04-06 23:14:27
komekome39 @komesandazo

理由は三つ考えられる 1)日蓮大聖人は釈迦の弟子であると御書に書かれてあるから。 2)地涌の菩薩は菩薩という境界であり、仏ではないら。 3)報恩抄に、「日本・乃至一閻浮提・一同に本門の教主釈尊を本尊とすべし」と書かれてあるから。 先ずは2から考察しよう。 続く

2023-05-22 22:08:57
komekome39 @komesandazo

「これは末代の凡女、彼は上代の聖人なり。志既に彼(釈尊)に超過せり。来果何ぞ斉等ならざらんや、斉等ならざらんや」(妙一尼御返事) これは近年発見された大聖人の真筆御書だが、ここで大聖人は妙一尼を褒め称え、志は釈尊すら超えている。釈尊と全く等しいと二度に渡り強調されている。 続く

2023-04-06 23:26:56
komekome39 @komesandazo

菩薩であり、大聖人の弟子でしかない存在の妙一尼が師匠の釈尊と等しいとは一体どういうことなのか?問題はこれだけではない。 「この大菩薩(地涌の菩薩)は彼らにはにるべくもなき、ふりたりげにまします。定めて釈尊の御師匠かなんどおぼしきを」開目抄 続く

2023-04-06 23:31:11
komekome39 @komesandazo

法華経によれば、地涌の菩薩は三十二相を備えているとされる。これは仏と転輪聖王のみが備える特徴であり、通常の菩薩が備えるものではない。しかもその姿は開目抄にあるように、釈尊よりも立派な姿をしている。菩薩であり弟子でありながら、釈尊よりも立派な姿をした地涌の菩薩とは何者なのか? 続く

2023-04-06 23:37:02
komekome39 @komesandazo

その答えは天台大師の法華文句にある。「(地涌の菩薩は)皆是れ古仏なり」と。即ち、外用においては地涌の菩薩は文字通り菩薩だが、内証においては皆仏であると天台大師は考えていたようだ。そしてその仏のリーダーこそが、大聖人その人に他ならない。 続く

2023-04-06 23:43:16
komekome39 @komesandazo

以前紹介した大涅槃教も、未来に現れる仏は複数形をとっており、一人が出現するのではないことを示している。即ち、この小乗経で釈尊は、地涌の菩薩の登場を予言していたと言えるだろう。それではここで疑問が湧く。なぜ地涌の菩薩は、菩薩という仮の姿を法華経でとる必要があったのか? 続く

2023-04-06 23:47:50
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