原始仏教(大涅槃経)から法華経、日蓮仏法そして創価学会までを結ぶ根本的な思想 凡夫即仏
- komesandazo
- 3291
- 22
- 0
- 0
その理由は、仏と言われる救世主は数多く出現するが、一時代に必ず一人というお約束があるためだ。 「同時に二仏に亘るか将た又一方は妄語なるか」石本日仲聖人御返事 釈迦という現在の仏と、未来の仏を同時に出現させるのは、この約束に背いてしまうため、釈尊よりも下の菩薩で、弟子という 続く
2023-04-06 23:56:59仮の姿をとる必要があったということだ。事実、過去と未来の仏は複数形なのに対し、現在の仏(釈尊)は単数形をとっている。一時代に救世主は一人しか現れないということだ。 twitter.com/komesandazo/st…
2023-04-07 00:01:36しているが、英訳には現在の仏も言及されている。「舎利弗よ、汝は仏としての私の心を知り得ることができるのか」、と。これは即ち、舎利弗は阿羅漢に過ぎす、釈尊よりも劣る存在に過ぎないことと、現在の仏が単数になっていることから、その当時の仏は釈尊しかいなかったことを明確に示している。 pic.twitter.com/mxFUBvB5Tm
2023-04-05 23:40:11又、「提婆品を案ずるに提婆は釈迦如来の昔の師なり、昔の師は今の弟子なり・今の弟子はむかしの師なり、古今能所不二にして法華の深意をあらはす」上野殿御返事 とあり、師匠と弟子の関係は入れ替わるものであり、釈尊の弟子=釈尊よりも劣る存在とは必ずしも言えないことを示している。 続く
2023-04-07 00:07:00事実、法華経には三千塵点劫という昔、釈尊の師匠であり親であり主人であった大通智勝仏という仏を登場させているが、五百塵点劫という更なる過去を寿量品で用意することにより、この師弟関係を覆して、釈尊が法華経上では最高の存在にしている。師弟関係というのは覆るということである。 続く
2023-04-07 00:11:28身延派の主張としてもう一つあげておく必要があるものがある。彼ら曰く。寿量品の自我偈に次のようなものがある。「常に私(釈尊)はここに在って滅することはないが、方便力の故に滅も不滅もあると現れるのである(略)衆生の心が仏を恋慕したならば、私はそこに出現して衆生のために法を説く」続
2023-11-30 21:50:36現代語訳 新・法華経論(須田晴夫)より 即ち、釈迦は末法の現在においても不滅であり、衆生が仏を恋慕したならば、いつでも衆生の前に出現できるから、釈尊以外の仏は不必要であり、日蓮を本仏とするのは邪義であるという主張である。これはどう考えるべきなのだろうか? 続
2023-11-30 21:54:15ここで重要なことは、「衆生が仏を恋慕する」という条件があることだ。末法の衆生は仏を恋慕する人々であるのか?そうではないだろう。末法悪世であり、法華経を説く者を徹底的に迫害する時代である。そのような時代に釈尊が衆生の前に出現することはない。入滅してしまうのだ。 続
2023-11-30 21:59:55そして、方便品にはこのように説かれている。須田氏の現代語訳より 「仏の入滅後で、眼前に仏がおられない場合は別である。なぜならば、仏の滅後に、これらの経を受持・読誦し、その意義を理解する者は得難いからである。」 即ち、末法は「衆生が仏を恋慕する」時代ではないのである。 続
2023-11-30 22:08:37「今末法に入りぬれば余経も法華経もせんなし」 上野殿御返事 大聖人は末法では法華経も役に立たないと言われたが、その真の理由は、「衆生が仏を恋慕する」時代ではないからということが、法華経を紐解くことで分かるだろう。では末法の衆生には救いはあるのか? 続
2023-11-30 22:12:19先ほど引用した方便品には続きがある。 「しかし、他の仏に出会うならば、この法を確信することができるであろう。」 即ち、衆生が仏を恋慕しない末法の時代においては、釈尊以外の仏に出会うことで、救われると法華経は説いている。法華経も大涅槃経同様に、未来の仏の出現をちゃんと予言している。
2023-11-30 22:15:56それでは、この方便品に説かれる悪世末法における「他の仏」の出現は、寿量品とどう繋がるのか?良医病子の譬えに誤って毒を飲んでしまった二種類の子供たちが説かれる。一方は、良医の指示に従い、薬を素直に飲む子供達。もう一方は、毒が深く体内に回ってしまい、薬を拒絶する子供達だ。 続
2024-01-12 21:43:29前者は仏在世であり、後者は仏滅後という法華経の二重構造がここでも現れる。薬を拒絶する(仏滅後の)子供達のために、この親は、ここに良薬を置いておくと、言い残して他国に行き、そこから使いをよこして、方便として、「あなた方の父は死んでしまった」という。遣使還告といわれる箇所だが、 続
2024-01-12 21:54:10親の使い(仏の使者)として使わされたこの遣使こそが、上行菩薩その人ということがいえる。それではこれが方便品の「他の仏」とどう繋がるのか?大聖人は一切衆生にとって主師親の三徳を備えた仏というのが開目抄の核心部分だが、毒薬(謗法)を飲んだ子供達にとっての親なのだから、 続
2024-01-12 21:59:05仏の使いとして使わされたその人(上行菩薩)とは外用にすぎず、この仏の使いの正体は、一切衆生にとっての親、即ち仏そのもの(久遠元初の自受用報身如来)であったということになる。単なる菩薩や如来の使いが、が主師親の三徳を備えている道理はないのだ。だから末法では「他の仏」が御本仏となる
2024-01-12 22:05:43「今末法に入りぬれば(略)但南無妙法蓮華経なるべし」 上野殿御返事 そして、この南無妙法蓮華経の教主は釈尊ではない。「他の仏」(方便品) である。そして、この釈尊以外の仏が誰を指すのかは、言うまでもない。以上で身延の邪義の破折完了。
2023-11-30 22:19:53twitter.com/komesandazo/st… これで1)と2)の破折は大体終了したことになる。3)は過去に既に呟いているので、後回しにして、これからはもう少し大涅槃教に関して呟いてみる。この経典の面白いところは、法華経と小乗の教えが両方混ざっていることだ。衆生の質に合わせて釈尊は両方併用したのだろう
2023-05-22 22:11:51理由は三つ考えられる 1)日蓮大聖人は釈迦の弟子であると御書に書かれてあるから。 2)地涌の菩薩は菩薩という境界であり、仏ではないら。 3)報恩抄に、「日本・乃至一閻浮提・一同に本門の教主釈尊を本尊とすべし」と書かれてあるから。 先ずは2から考察しよう。 続く
2023-05-22 22:08:57この大涅槃教の問題点は、小乗経の灰身滅智を離れていないことで、その点で明らかに劣る教えだが、舎利弗に説いた重要な教えとして、万人成仏を説いていることが挙げられる。「真実を知り得る智慧を会得することで、人は誰でもブッダ(目覚めた者)になりえる」。 続く
2023-04-07 22:03:21即ち、大乗経典では成仏できないとされた二乗が成仏可能であると仄かしている。それでは悪人成仏と女人成仏はどうなのか?釈尊は女性たちの懇願に応え、出家を許したとされる。即ち女人も男性同様の悟りに達すると認めたからに他ならないだろう。又、提婆達多に関しては、増一阿含教にて、 続く
2023-04-07 22:11:32彼は今までの報いにより地獄に落ちるが、後に仏となって南無という名を得る、と説かれている。即ち、法華経に説かれている万人成仏は、これらの文献からするに、歴史上の釈尊により全て説かれていたと考えて問題ないだろう。 加えて、もう一つ重要な点がこの舎利弗への説法にある。 続く
2023-04-07 22:15:58「舎利弗よ、これまでにも真理を知り得た人物はいた。 そのような尊い人物の心を、そなたは知っているのか?」 これは仏とは自分だけではなく、過去にもいたと説く釈迦の説法だが、ここで注目すべきは「尊い人物の心」。英訳もmindとなっている。即ち、仏とは己心に住することを仄かしている。 続く
2023-04-07 22:26:40大聖人の御書にはどう説かれているのか? 全御書中最重要の観心本尊抄には、「我等が己心の釈尊は五百塵点乃至所顕の三身にして無始の古仏なり」とある。この己心の釈尊とはインドの釈尊ではないことは明白である。我々一人一人の心の中にインドの釈迦が住んでいるなど荒唐無稽な話だ。 続く
2023-04-07 22:29:52即ち、この釈尊とは私たちの己心の中にある仏界の比喩表現に他ならないのだ。そして、この釈尊とは、報恩抄の「日本・乃至一閻浮提・一同に本門の教主釈尊を本尊とすべし」の釈尊と同一であると見做さなければならない。その理由は、この文の続きに、 続く
2023-04-07 22:34:13「所謂宝塔の内の釈迦多宝・外の諸仏・並に上行等の四菩薩脇士となるべし」が来るためだ。釈迦が宝塔に中心に座ると同時に脇士となる(身延はこう解釈しているが)というのは不条理な話だ。それでは大聖人の上行菩薩はどうなのか?それこそが法華経の文上と文底という二重構造である。 続く
2023-04-07 22:38:30法華経のどこが二重構造なのか? 神力品で地涌の菩薩に付属された法と、属累品で全菩薩に付属された法、これが二重構造。この二つの法は同一のものではない。 その文証はあるのか? 神力品にこうある 「諸仏が道場に座って得た秘要の法を、この経を受持する者はわずかの間に得るだろう」 続く
2023-04-07 22:46:47「諸仏が道場に座って得た秘要の法」と「この経(法華経)」とは文脈からして明らかに同じものではない。そして、属累品で全菩薩に付属された法が法華経なのに対し、上行菩薩に付属された法は秘要の法なのが、同様に文脈からわかるだろう。これこそが法華経の二重構造だ。 続く
2023-04-07 22:51:31