- marianna_ave
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(18) それに対して、戦後「授業の名人」と言われた群馬の齋藤喜博の場合は「教師が答えをもっていることを「発問」しない」。「教師が答えをもっている発問では結局のところ生徒を萎縮させてしまう」という考えが背景にあったのではないか? と、これは太田教授の文中にある仮説。
2011-11-21 23:36:27(19) とりあえずこんなところかな。これで「発問」「質問」の用語の用法のゆらぎについては個人的には整理がついた気がする。・・・・(気がする、ですよ(^^ゞ) で、じゃあ自分はどうなのというと・・・・
2011-11-21 23:40:16(20) 「発問」という用語を厳密に定義して使う気にはあんまりならない。実を言えば僕は「発問」という用語をそもそもまったく使わないようにしてるし。 重要なのは、「謎から始まる理解のプロセス」が起きることであって、それが起きさえすればきっかけは何であってもかまわないから。
2011-11-21 23:42:39(21) ちなみに、僕が企業研修をするときは、「答えを想定している発問」を多用します。ただしそれは「謎から始まる理解のプロセス」が起きることを想定して慎重に組み立てているもの。この意味では法則化運動の立場のほうに近いと思う。
2011-11-21 23:47:56(23) もっと率直なことを言うと、僕は「発問」をあまり重視していないような気がする(気がする、かい!!(笑)) だから「発問」という用語も使わないのかもしれん(^^ゞ
2011-11-21 23:53:04(24) 発問を重視しないってどういうことかい、というと、発問に至る以前の環境作りですね。こちら→ http://t.co/S89RNRCt 「授業は、発問なのだろうか?」 の内容に同感。発問よりも「説明と指示」が重要、ということ。
2011-11-21 23:56:41(25) この連投の出発点にしたチャート http://t.co/aLqsyIG6 で、理解のプロセスは「謎」から始まっていた。じゃあこの「謎」はどうすれば起きるのか? 教師がうまい「発問」をすれば起きるのか? 違う。
2011-11-21 23:58:19(26) 僕が主に労力を注いでいるのは、この「謎」が起きるような環境を作ることです。環境を作ってそれを「説明」する必要があります。で、それができればあとはちょっとした「発問」で、謎から始まる理解のプロセスが転がっていく。しかし・・・
2011-11-22 00:00:32(27) しかし、「環境」がピンと来ないといくら「発問」したって無駄。だから、環境作りに心血を注いでいる。それがうまくいけば、発問には別に技術は要らない。のですよ。あくまでも僕の場合は、ですが。
2011-11-22 00:04:03(28) なお、齋藤喜博の授業について、紹介文を読む限りの印象で言うと、「教師が答えをもっていることを「発問」しない」というやり方は、戦後まもない時期の国語科だから成り立っていたのではないか、という印象を受ける。
2011-11-22 00:07:00(29) 「教師が答えをもっていることを「発問」しない」というこの考え方をそのまま、理科や数学あるいは社会や歴史でやろうと思っても難しいものがあるのは想像に難くない。
2011-11-22 00:08:48「探索のプロセス」をまったくやらない人はどうしてもそうなっちゃいますね RT @kantomi: 私は発問ばかりやっているつもりだけれど、抽象的すぎて意味が分からんと言われることが多い。
2011-11-22 00:21:54