デモの求心力が再び高くなってきているのは、勿論その主旨が広範な支持を得るようになってきているからでもあるが、デモそのものにおける身体性・共同性への欲求が社会的に高まってきているから、という側面もあるだろうと思う。
2011-11-22 13:48:582:大阪で繰り返されたクラブ摘発が福岡でも始まった。客が踊ったということで風営法違反容疑で摘発されたキースフラックのケースは、単に時代に合わない法律の問題だろうか。ダンスと、デモの取り締まりを警察が強化していることは偶然の一致だといえるだろうか。3に続く。
2011-11-22 13:55:543:身体性の抑圧、制限、剥奪は、古典的な奴隷の管理方法だ。「下々」のデモも、ダンスも、だから権力者は、嫌う。それはどこか解放につながっているからだ。自由や、自分自身の奪還や、支配構造の転覆につながるからだ。それそのものがすでに闘いを内包しているからだ。4に続く。
2011-11-22 14:00:514.しかし。身体性というものは、文字通り人間の具体性、つまり「体」を「具(そな)えた」存在である人間のいわば本質。しかもこの身体を相互に交流しながら感じ、意識し、確認しながら生きるという人間のいのちのあり様そのもの。5に続く。
2011-11-22 16:29:405.だから、身体の抑圧、制限、剥奪は、手痛いしっぺ返しを喰らう。身体の反乱を呼び覚ますからだ。抑圧は爆発を、制限はハミダシ・突出・突破を、剥奪は奪還を、それぞれ必然的に招く。そしてこの身体性こそが普遍性。権力者は、心してこの御しがたいものの前に立たねばならない。6につづく。
2011-11-22 16:39:356.権力者自身も、この身体性を他人事にはできない。身体は自分自身でもあるからだ。その意味で反乱はすでに権力者自身の中に内包されてしまっている。身体性は、いつも人間自身のうちに点っている火種。それを甘く見ると、大やけどする。世界さえも焼き尽くす炎にもなりうる。7につづく。
2011-11-22 16:48:047.日の丸や君が代に対する起立や斉唱の強制もまた、身体性への抑圧だ。身体の束縛があったとしてもそれは、内心の自由を侵害するものではない、とのあらゆる言説は、偽りだ。それを語っている者自身の身体が、それを証言するだろう。心とは中心のこと。身体そのものの「真ん中」が心。8に続く。
2011-11-22 17:02:468.心は身体に規定される。身体によって、心のありかは決まると言っていいかもしれない。身体は心であり、心は身体だ。「心は別でいい、身体だけ従ってくれればいい」などというのは、決して分けてはならないものを裂き、分裂させること。9に続く。
2011-11-22 17:08:299.いや、分けてはならない、ではない。分けられない、分け得ない、だろう。それをあたかも分けることのできるもののように言うことの、ウソ。そして身体へのコントロールの試みは、結局は身体が規定する心を、コントロールしようとする試みだ。だまされてはならない。10につづく。
2011-11-22 17:15:1910.身体を取り戻すこと。それはこの身体からスタートできる。歩くだけでいい。飛び跳ねてみるだけでいい。身体をゆすってみるだけでいい。囁くだけでいい。歌うだけでいい。叫ぶだけでいい。そこで自分の身体を感じるだけでいい。そこにすでにあるものを確認するだけでいい。11に続く。
2011-11-22 17:23:5511.それはすでに身体性の奪還の始まりだ。闘いは、そこにおいて具体化し始める。すでに始まっていたはずの闘いが、そこに姿を露にする。ダンスやデモへの規制、日の丸君が代起立斉唱の強要は、このうえなく明確に、シモジモがこの身体で何をすればいいのかをピンポイントで指し示している。12へ。
2011-11-22 17:36:5012.踊ろう。歩こう。集まろう。散らばろう。あるいはそれぞれに、突拍子も予告もなく、突然に、その場で。あるいは一緒に、呼吸を合わせて、一気に、共同で。座り込もう。黙ろう。立ち上がろう。飛び跳ねよう。叫ぼう。チガウ歌を、歌おう。まつろわぬ身体の歌を、踊れ!(終)
2011-11-22 17:47:48