忘れないうちにメモ/映像は短い時間でもその圧倒的な情報量で、人を笑わせることも泣かせることもできる。また、映像に対自した各人の「経験」によって、その映像を「作品」「映画」「ドキュメンタリー」などの文法との違和感な度を感じる人もいる。
2011-11-20 23:43:06「映像」と「対話」をセットにしたプログラムは、未来描く、または幸福像を再考するおおよそ、有効だとは思う。だけれども、映像と対話のテーマとの関係性を強くうちだすところまではたっすることは出来なかった。
2011-11-20 23:45:38「語ったこと」よりもご本人にとっては「映像化されたこと。みんなで観ること」の方が前面に出ますね RT @numa411: 「映像」と「対話」をセットにしたプログラムは、未来描く、または幸福像を再考することは有効だとは思う。……映像と対話のテーマとの関係性を強くうちだすところまでは
2011-11-20 23:49:28@numa411 お疲れさまでした!年も仕事もバラバラな人たちが対話するのに映像はいいツールだと思いました。コメントはもっと色々出てくるかと思っていましたが、みんなシャイでしたね(笑)私も含め少し外部の人が多くなったので、ちょっと恥ずかしくなっちゃったかも、なんて、感じました。
2011-11-20 23:47:54映像を見て語るという行為を映画を見て語るという行為に置き換えてみると、それはそれほど不思議でなく、一般的な映画の楽しみ方であるといえる。しかし、対話の素材としての映像と組まれているものは、説明されなけれれば、調理方法のわからない食材と同じになってしまう。
2011-11-20 23:47:47映像を使ったコミュニケーションは、いくつかの次元でかんがえることができる。 1,撮影プロセスとしてのインタビューとインタビューチーム 2.インタビューチームとしてのチームビルディング 3,鑑賞&対話プログラムでの映像との対話 4.映像を振り返り、その後の家族や友人たちとの対話
2011-11-20 23:51:325数十年後における活用と対話 RT @numa411: 映像コミュニケーションの次元 1撮影プロセスとしてのインタビューとインタビューチーム 2インタビューチームとしてのチームビルディング 3鑑賞&対話プログラムでの映像との対話 4映像を振り返り、その後の家族や友人たちとの対話
2011-11-20 23:57:29映像に写しただされる人が知り合いであれば、その知り合いの今まで知らなかった側面、思いをみつけることができるだろう。第三者に語った物語を共有することになる。映像に映し出される人が知らない人間だったとしても、強い新規感を持つことになる。
2011-11-20 23:53:08感想をうかがうと「恥ずかしい」と答えた。また、「こんなこといったっけ?」という。カメラの前ではみな、「いいこと」「りっぱなこと」「正しいこと」「かっこいいこと」を答える。ということは、それは真実ではないのだろうか。しかし、それを語ったということは、それは、やはり、深層心理の発露か
2011-11-20 23:56:33語られた物語は映像として残されたものは、この地球が消滅するまで、○年○月○日の記録と残ることになる。5年後、10年後、50年後の未来の田野畑村の人々はこのインタビュー映像を見て、何をおもうだろうか。
2011-11-20 23:58:16村の未来像は誰が創りだすのか、誰が語るのか、ドミナントストーリーから、オルタナティブストーリーへ移り変わるのは、何が装置となるのか。あるとき、ある場所の「対話」ではないだろうか。語ることでしか未来は変えるきっかけを創り出せない。
2011-11-21 00:00:343時間集中力が切れなかったと思います。 RT @numa411: しかし、同席した人間の「思い」が一つの語り(映像)に集中していく雰囲気は独特のものがあった。意識が一点に集約する感じ。集中とその思いを語られた本人の振り返りで、拡散させるやり取りの連続はリズムとして、よかったかなと
2011-11-21 00:52:20@numa411 取材したみなさんにどういう気持ちで語っていたのかはやはりつかみきれない部分が残りますよね。少し後で振り返ってもらったりして、継続的にお付き合いすると、語りの心理や、上映会での気持ちなどが、もう少し分かり、望ましい方向が見える気がしました。全員でなくてもよいので。
2011-11-21 00:05:41一枚の写真が語るある過去は、どんな文献よりも多くのことを伝えてくれることがある。それが、「映像」となれば、その情報量は数倍となるだろう。過去を読み解く鍵になり、そして、未来を昇る階段になる。
2011-11-21 00:02:57今回、田野畑村の未来を語る会での映像編集は、最低限に抑えて、そのままの語りを活かしたもの。しかしそれも「編集」でどうにでもなると考える人もいるだろう。編集された映像と向かい合ったことしかなければ、そうなるかもしれない。映像とは編集されたもの。これが映像と向かい合うときに固定概念。
2011-11-21 00:07:05<語ったこと><撮ったこと><観たこと>それぞれの間に<カメラ>と<編集>が存在している。そんな道具や手数に意識を注がせない<見やすいもの>ばかりがいいとは限らんわけでして。 RT @numa411: 田野畑村の映像編集は、語りを活かしたもの……映像とは編集されたもの。
2011-11-21 01:03:13そうですね。個人の物語で、ポジショントークは少ないと思うのですが、自分できれいにはなしすぎた(ウソをついた)と思ったのかもしれません。RT @41satoyo: @numa411 取材したみなさんにどういう気持ちで語っていたのかはやはりつかみきれない部分が残りますよね。
2011-11-21 00:09:57カメラ(ビデオ)が回ると、その関係者は皆、真剣になる。真実に近いもの、または、それはとか真逆のものを映し出す「装置」としてのインタビューは奥が深い。相互作用で、インタビューする側も大きくその内容に影響をうける。
2011-11-21 00:11:38しかし、同席した人間の「思い」が一つの語り(映像)に集中していく雰囲気は独特のものがあった。意識が一点に集約する感じ。集中とその思いを語られた本人の振り返りで、拡散させるやり取りの連続はリズムとして、よかったかなとは思う。その意識の集梅雨とブレイクさせる振幅は心地よかったかな?
2011-11-21 00:15:38映像に写り込んだものには、撮影者と意図が発生してしまう。そこに特別な意味性を付与していなくとも人は解釈しようとする。不思議なくらい。そして、画面を構成するという意識を撮影者は強く意識する。世界を切り取る行為は、ファインダーを通した世界を創りだす再構成の行為で空間デザイン力を高める
2011-11-21 00:20:13人は映像から何かを得ようとする。何かが語られているはずだ思う。ハリウッド映画は何かをかんがえらせるというより、泣かせる、笑わせる、感動させるなどの役割を最初から分類され、埋めこまれている。だが、このインタビュー映像は他の話のため、考えるためにあることが大きく違う。
2011-11-21 00:22:46