@sweets_street そういう理由もあるでしょうね。ただ、そもそも都督自ら戦闘を指揮する事は本来無いのだろう、と。王渾の戦い方が、本来の都督のあり方なんじゃないかと思います。
2011-11-25 20:24:09@Jominian 一番信頼できる人物があたるというのは、何をするのにも原則です。軍事能力がもっとも信頼できる人物が都督本人なら本人が、他の人物が信頼できるなら他の人物があたるというのは自然なことでしょう
2011-11-25 20:29:02@Jominian たぶん原則として前線の状況がつかめる位置まで出るところ、地理に不案内であったりして不規則な事態の発生が予想される場合は、大事を取って後方で指揮を執るという形になるのではないでしょうか。だから内地と外地で違いが出てくる、と。
2011-11-25 20:40:19馬隆は出発に際してなんと言っていただろうか?「勇士三千人を率い、太鼓を打ち鳴らして西へと進み、陛下の威徳を授ければ、滅びないはずがない」といった内容だ。これはまさしくその通りで、所詮は緩い集まりでしかない異民族の蜂起だから、力を見せれば連合は瓦解するという事だ。彼の分析は正しい
2011-11-26 01:16:58@awawaasao2010 まあ、確固たる連帯を持たない異民族同士の連合軍だからこそ通用するんですけどね。それまで涼州への晋軍の到達をシャットアウトしていたのに、たった三千人に軽々と突破されれば、恐慌も広がるというものです。因みに私は、堂々と敵を撃破する方が好きです
2011-11-26 01:25:56@Jominian 行軍するだけで目的を達する戦争もありますよね。相手が地の利を恃みとしている場合はそういうことが多いです。ですから、地の利が潰えた瞬間に敵は崩壊するのです
2011-11-26 01:30:52@sweets_street 間接アプローチですね。交州の陶璜も海路九真に出た事で、敵司令官楊稷を揺さぶり、自軍を優位に立たせています。上手く決まった間接アプローチは芸術ですね
2011-11-26 01:41:07@Jominian 蜀攻略戦の鄧艾も機動の芸術を見せてくれました。陰平越えとそれに続く速攻で成都の政府の心を折ったのは見事でした。諸葛瞻撃破後の進撃の速さはあまり言及されませんが、短期間であそこまで進まれたら、どんなに物量があっても戦意は保てないでしょうね
2011-11-26 01:48:27@sweets_street あれは、機動そのものではなく、諸葛瞻が敗れた事によって、自国の中心に敵を置いたまま抵抗する戦力を失した事が原因に思えます。常勗の守った郫県以外は完全に抵抗力を失ってましたから。
2011-11-26 02:10:31@Jominian 成都から出撃した諸葛瞻は明らかに冷静さを欠いていました。冷静に鄧艾の軍容を把握すれば、迅速に成都を降伏させなければ立ち枯れる孤軍であったことは理解できたでしょう。そんな相手に決戦を挑まざるを得なくなったのは、成都と諸葛瞻が急きょ出現した敵に恐慌したからでは
2011-11-26 02:16:17@sweets_street ああ、摩天嶺を越えた事を仰っていたのですか。諸葛瞻を破った後の事を言っているのだと思いました。摩天嶺を越えたのは、最小予期線であり、そして最小抵抗線でもある道を取った間接アプローチですね。
2011-11-26 02:20:37蜀が滅びた事により、征蜀護軍がその役割を終え、新たに平虜護軍が置かれたのだろう。雍州刺史と共に雍州諸軍事の手足として軍を率いる指揮官として置かれている。相手が蜀か異民族かの違いだけで、征蜀護軍の役割をそっくり受け継いだと思ってよい
2011-11-26 02:28:18@Jominian 少しでも進軍が止まったらそこで全滅することになるので、敵に与える心理的効果と配下の将兵がほぼ無停止で成都に到着できることを確信しなければできない作戦です。ほぼ無停止で成都に迫れたこと自体が彼の軍事能力の素晴らしさを証明していますね
2011-11-26 02:31:09@sidenp @sweets_street 諸葛瞻の合理性を欠いた行動が、もともとの能力の低さに起因するのか、何らかの原因でとち狂っていたが故なのかは、後世の我々には分からないのがつらいところですね
2011-11-26 02:31:45@sidenp @Jominian 平静を欠いて、経験が乏しい指揮官が率いたのに、敵の前線指揮官が死刑をもって脅されないと戦意を維持できないほど追い込めたのです。諸葛瞻と鄧艾の力量差をもってしても、明らかに蜀が有利でした
2011-11-26 02:36:28@Jominian @sidenp 軍事能力を測るにはデータが足りないですね。ただ、記録からうかがえる彼の人柄は宮廷以外の世界が見えない人で、宮廷さえ平穏ならばそれでよしとする人。そのような人物が戦場に叩きこまれたら平静さを失うのは当然です。冷静なほうが異常です
2011-11-26 02:40:40樹機能との最終決戦に臨んだ馬隆は、数千の漢人と帰順したばかりの多くの異民族という陣容だった。異民族が騎兵だったか、或いは歩兵だったかも考える必要がある。だが、且万能が斉万年だとすると、氐族なので歩兵のような気がする。
2011-11-26 02:42:19最終的に、自分が馬隆だったとして、どういう布陣でどう戦うかまで検討しよう。それは既に馬隆ではなく俺の戦になってしまうがね。その為には、戦力の内訳を検討する必要がある。
2011-11-26 02:44:07司馬駿は平虜護軍文俶に三州の兵を率いさせ、樹機能を圧迫した。そこには涼州の兵も含まれるが、当時は楊欣が敗れた所だ。秦州に居たであろう文俶が涼州の兵を統率できるものだろうか?連絡すら取れなかったのではないか?或いは、牽弘が敗れてから涼州兵は秦州にいたのかもしれない
2011-11-28 22:56:40いや、違うな。武帝紀を注意深く読んでいくと、楊欣が敗れるまでは各地で晋軍の抵抗が続いている事が分かる。楊欣が敗れ、樹機能らが涼州を陥落させるまでは、晋軍はある程度組織的に抵抗できていたのだろう
2011-11-28 23:08:02司馬駿の伝によれば、文俶が三州の兵を統率したのは咸寧三年以降だ。つまり、それ以前の鮮卑や北地胡を破った事績に、文俶は大きく関与はしていない。異民族を打破したというのは、いささか誇張されている
2011-11-28 23:21:54