御義口伝、百六箇抄等の日興の真筆が残らない口伝の信憑性に関する考察

御義口伝や百六箇抄は日蓮真筆や歴史的根拠やに照らして、信頼たり得る御書であるか否かを論じてみました。
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komekome39 @komesandazo

偽書を捏造することの危険性として、一旦そうした不正が判明すると、永久に寺から追放されることが挙げられる。又、そうした行為は地獄へ落ちる行為であることを熟知しているのは他でもないこの御書の作者だ。わざわざ日蓮本仏論を証明するために、これほどの知恵者がそんなことをする必要はない。 続

2023-09-26 22:31:59
komekome39 @komesandazo

同様のことは御義口伝だけではなく、他の真筆が残されていないいくつかの御書にも当てはまる。例えば、総勘文抄や一生成仏抄などがそうだ。具体例を示すと、生命に内在する宝塔とは自分の外にも内にも存在するとは一体どういうことかという答えが総勘文抄にある。 続

2023-09-26 22:36:56
komekome39 @komesandazo

長いが全て引用してみる。 「我が心性を糾せば生ず可き始めも無きが故に死す可き終りも無し既に生死を離れたる心法に非ずや、劫火にも焼けず水災にも朽ちず剣刀にも切られず弓箭にも射られず芥子の中に入るれども芥子も広からず心法も縮まらず虚空の中に満つれども虚空も広からず心法も狭からず」 続

2023-09-26 22:38:52
komekome39 @komesandazo

即ち、生命にとっては、どれほど宇宙の空間が広くても、それが広過ぎることはなく、逆に狭くでも狭過ぎることはなく、何に縁しても決して滅することはなく、始めも終わりもない存在と説いている。宇宙即我、我即宇宙の概念がここに説かれている。だから法とは自分の外にも内にもあると言える。 続

2023-09-26 22:44:54
komekome39 @komesandazo

次は一生成仏抄 「起るところの一念の心を尋ね見れば有りと云はんとすれば色も質もなし又無しと云はんとすれば様様に心起る有と思ふべきに非ず無と思ふべきにも非ず、有無の二の語も及ばず有無の二の心も及ばず有無に非ずして而も有無に徧して中道一実の妙体にして不思議なるを妙とは名くるなり」

2023-09-26 22:47:06
komekome39 @komesandazo

戸田先生の獄中での悟り、仏=生命が実はこの御書にて説かれている。「一念の心」とは「有無の二の心も及ばず」とあり、その実態は存在するとも存在しないとも捉えることができない。そして、「此の三千・一念の心に在り若し心無んば而已介爾も心有れば即ち三千を具す」観心本尊抄 続

2023-09-26 22:51:11
komekome39 @komesandazo

即ち、生命とは存在するものとも存在しないものとも定義できず、その生命に仏は宿る、となる。これは、生命とは厳然と存在しているのだが、その存在を物理的な方法で確認しようとすると、如何なる方法を用いてもその存在を証明することができない、と解釈することが可能だろう。 続

2023-09-26 22:58:28
komekome39 @komesandazo

物理的な存在を完全に超越した存在が生命の本質。だからこそ、次のようなことが言えるのだろう。もう一度引用しよう。 「劫火にも焼けず水災にも朽ちず剣刀にも切られず弓箭にも射られず芥子の中に入るれども芥子も広からず心法も縮まらず虚空の中に満つれども虚空も広からず心法も狭からず」

2023-09-26 23:00:13
komekome39 @komesandazo

ここまで御義口伝、それに関連して総勘文抄と一生成仏抄の内容を見てきたが、どうだろうか?その深い内容には本当に驚くものがある。しかも、これらが全て偽日蓮による偽書だと仮定するならば、一人ではなく、どうやら複数の人間による捏造ということになってしまうようなのだ。 続

2023-09-26 23:04:39
komekome39 @komesandazo

totetu.org/assets/media/p… 小林正博氏は、私が今まで引用してきたような天台本覚思想が濃厚な御書に関して「同時期に限られた場所で少数の人で作成された一かたまりの御書群ではない」と彼の論文で述べている。

2023-09-26 23:17:52
komekome39 @komesandazo

では今度は、偽日蓮による百六箇抄の後加文及び、内容からして偽物の可能性が高い御書を、誰が、いつ、何の目的で作成したかということを今度は検討してみようか。

2023-09-27 22:43:21
komekome39 @komesandazo

「直授結要付属は一人なり」「末弟等異論無く尽未来際に至るまで予が存日の如く日興嫡嫡付法の上人を以て惣貫主と仰ぐ可き者なり」 簡単に言えば、法主は今日蓮であり、崇拝しなければいけないという内容。御本尊七箇之相承にも、「代々の聖人悉く日蓮なり」とある。法主の絶対化を狙ったもの 続

2023-09-27 22:47:10
komekome39 @komesandazo

日顕宗(日蓮正宗)が大好きなもので、頻繁に引用しているが、「もしも私(日興)が朦朧して念仏などを唱えたら、私を捨てよ」という大石記と矛盾するので、これらは使用不可なのは明白だ。 続

2023-09-27 22:51:14
komekome39 @komesandazo

次に偽書なのがほぼ確定している出家功徳御書 「其の身は無智無行にもあれかみをそり袈裟をかくる形には天魔も恐をなすと見えたり」 坊主の格好だけしていれば、修行などせずとも天魔は恐れをなす。こんなことを大聖人が言うはずがない。こうした坊主を大聖人は最も嫌われた。 続

2023-09-27 22:55:51
komekome39 @komesandazo

「仏法を学し謗法の者を責めずして徒らに遊戯雑談のみして明し暮さん者は法師の皮を著たる畜生なり」松野殿御返事 従って、その内容からして出家功徳御書はほぼ偽書と判断されている。大石寺が僧侶不足と資金不足で困窮していた時期があり、その時に捏造されたと考えれば見事に辻褄があう。 続

2023-09-27 23:00:46
komekome39 @komesandazo

さらに悪質なのが十王讃歎抄。要約すると、坊主に御供養しないと地獄に落ちたご先祖さまが酷い苦しみを受けるぞと、地獄の苦しみを次々と話して信徒を恐怖に陥れ、供養させる内容。これも大石寺が捏造した偽書とされている。堀日亨が排除するまで大石寺はこの御書を重要視していたらしいから酷い話だ。

2023-09-27 23:04:58
komekome39 @komesandazo

加えて、先程述べた要法寺から来た御書も極めて怪しいものが多い。 「(大聖人の母の)或夜の霊夢に曰く叡山の頂に腰をかけて近江の湖水を以て手を洗うて富士の山より日輪の出でたもうを懐き奉る」「父の太夫我も不思議なる御夢想を蒙むるなり、虚空蔵菩薩貌吉き児を御肩に立て給う」 産湯相承事 続

2023-09-27 23:31:51
komekome39 @komesandazo

大聖人ご自身はともかく、凡夫がこのような通力のようなものにより物事を判断することを大聖人は「但し法門をもて邪正をただすべし利根と通力とにはよるべからず」唱法華題目抄 と禁止しておられる。従ってこの御書の内容は極めて怪しい。しかも問題の多い要法寺から出たのであれば尚更だ。 続

2023-09-27 23:34:47
komekome39 @komesandazo

仮にこの御書が偽書なら、何を意図しているのかというと、背後に自分の寺の権威付けというのが透けて見えると感じるのは、果たして私だけだろうか?二箇相承もほぼ同様。怪しいのはやはり要法寺。この寺は飛び漫荼羅という偽本尊を捏造したとされるし、信用は全くないな。 twitter.com/komesandazo/st…

2023-09-27 23:44:39
komekome39 @komesandazo

実際に戒壇本尊と日禅授与の本尊を比較してみれば良い。更にいうなら、本物(日興の曼荼羅)と、籠抜きという手法で作られた偽物(日蓮正宗所有の飛び曼荼羅)の文字曼荼羅とも比較してみれば良い。なお飛び曼荼羅の参考文献はこちら。 fujikyougaku.fc2web.com/ronbun/tobiman… pic.twitter.com/ofODmat29d

2023-06-01 23:06:48
komekome39 @komesandazo

さてそれでは、肝心の御義口伝はどこから来ているかというと、最古の写本は日隆門流の八品派のようだ。どのような宗派かと調べてみると、このような資料があった。 jstage.jst.go.jp/article/ibk195… 「釈尊と上行は一仏二名」と捉えるようだ。いったいどこからこんな発想が生まれたんだ? 続

2023-09-28 23:16:58
komekome39 @komesandazo

大聖人と釈迦は同じ仏ではない。その証拠は次の通り。 「汝日蓮を侮如するの重罪又提婆達多に過ぎ無垢論師にも超えたり」 顕仏未来記 即ち、大聖人を誹謗する罪は釈迦を誹謗するよりも重いということ。 又、日興の写本の残る高橋殿御返事には 大聖人を供養する功徳は釈迦を供養するよりも大きいとある

2023-09-28 23:25:01
komekome39 @komesandazo

だから「教主釈尊より大事なる行者」下山御消息 となる。更にいうなら、釈尊と大聖人とでは法が違う。「(彼(正法)は一品二半此れ(末法)は但題目の五字なり」観心本尊抄 とある通りだ。一仏二名ならば、身体は別でも、法は同じ法でならなければならない。

2023-09-28 23:29:37
komekome39 @komesandazo

又、八品派の名称の由来は、「但地涌千界を召して八品を説いて之を付属し給う、其の本尊の為体(略)」という観心本尊抄の一文を取り上げて、涌出品から嘱累品までの八品のみに御本尊が顕されているということのようだ。 これも邪義。この御文は、地涌の菩薩の登場するのは八品に限るということを

2023-09-28 23:43:02
komekome39 @komesandazo

述べられたものであり、文字曼荼羅は八品に限るという意味ではない。 「汝何ぞ一念三千の観門を勧進せず唯題目許りを唱えしむるや、答えて曰く日本の二字に六十六国の人畜財を摂尽して一も残さず月氏の両字に豈七十ケ国無からんや」四信五品抄

2023-09-28 23:45:48
komekome39 @komesandazo

しかしながら、より厳密に言えば、法華経全体ではなく、寿量品のみという方が正しいかもな。「本尊は法華経八巻一巻一品或は題目を書いて本尊と定む」唱法華題目抄 とはあるが、「一念三千の法門は但法華経の本門・寿量品の文の底にしづめたり」開目抄 とあり、又、 続

2023-11-29 22:29:55
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