「大坂の陣」~考察・議論・資料・豆知識集(「どうする家康」から)
認知バイアスが甚だしくなると、出来損ないの豊臣公儀は日本史の異物で徳川家康が正常化したのだとか言い始める。歴史を経時的に理解する意思と能力が無く必然論的物語でしか把握出来ないとそうなる。
2023-12-03 10:01:02>本来豊臣公儀で会津の大名(蒲生→上杉)は伊達山形など油断出来ない新参大名を牽制する役目で徳川はそのバックアップだったが、私婚問題で徳川と伊達が婚姻関係を結んでしまった。三国同盟が関東公方を牽制する室町幕府体制を等閑にするものだったという状況と通底するね。
2023-12-03 10:47:15七将事件の後始末の一環で徳川と上杉が縁戚を結ぶ事が取り沙汰されたのは、東国大老を本来の姿に戻す試みだったのだろうが立ち消えになってしまっている。家康がそれを望まなかったという事だろう。(東北への警戒コストを下げて上方政局に集中したかったか
2023-12-03 10:47:15家康が望んだ「天下の形」は秀頼を傀儡とする実質徳川の天下であり、鎌倉北条執権体制をモデルにしたものだったと思われるし、その上でドラマの徳川主従による「天下を取り戻す」という呼号を理解出来ねえとな。
2023-12-03 10:47:16蒲生秀行が家康の婿でありその後見指南を受けるという条件で氏郷領継承が許されたが結局家中統制を確立出来ず改易されちゃうのね。家康一人で関東と東北の治安維持に当たるのは負担が大きすぎるというのが秀吉の判断だったと思われる。 twitter.com/urakkun26/stat…
2023-12-03 10:52:24上杉百万石が豊臣公儀の鎮台として機能すれば関東徳川の負担応分は相当減少しその分家康は上方での職務に集中出来るはずだったが、公儀の頭越しに伊達と縁戚を結ぶというのは五奉行の思惑からすれば明後日の方向だったし、「何をする気だ」という警戒心が起きるのも無理は無い。
2023-12-03 10:59:47その伊達が関ヶ原合戦後に秀頼を大坂に置いとくとマズいので家康のお膝元で保護すべきなのではと提案してるのは、上方が政治的な空白地帯になってるバランスの悪さを不安に感じたからだろう。
2023-12-03 11:06:46天下人が上方に居ないという歪さは当時の情報インフラの限界と相まって鐘銘問題やら牢人騒擾やらを誘発し、大坂の陣が勃発してしまった。
2023-12-03 11:09:38上杉討伐に失敗した家康が大坂城を出てしまうのは、天下の事はなるようにしかならないという一種の諦めも有ったのではと思っている。(家康自身その後自分に10年以上の余命が有るとは知りようも無いからね
2023-12-03 11:18:01昨日の『どうする』は大坂の陣だったか。大砲が話題だがそれが城方の抵抗力をどの程度減弱したのかつうとなあ。接触線である総構えを無力化出来たかつうと「真田丸の戦い」を見るとそうも言えないだろう。 なにより徳川大坂城の構造に大転換が無いという事は、大砲の影響力が限定的だったつう事だろ。
2023-12-04 06:51:10徳川方の将兵が戦後世代に変わっている事もあり、力攻めでは大坂城は落とせなかったというのが史実だわな。(豊臣の小田原城攻めも力攻めでは落とせてないので、城の攻守バランスはまだ防衛側に有利だった事もある
2023-12-04 06:51:10西洋の要塞が高い城壁を捨て稜堡式城郭に切り替わる軍事革命を起こす様な衝撃は大坂の陣では無かったのだろう。気づくだけのセンスを持った人が居なかったのかもしれんが。
2023-12-04 06:51:11長篠の銃と大坂の大砲を過大評価するのは、極東の日本での軍事革命を発見したいという願望から生じてるのかもしれんね。本当に「革命」が起きてたら武士の時代が続いてたかどうか。
2023-12-04 06:51:11