1/1 武田勝頼公を想い、下御霊神社初詣参拝

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日光81 @nikko81_fsi

さて、武田の御家にもありそうな門松で新年のご挨拶。令和六甲辰の年も皆々様、よろしゅうです。とりあえず酒か城か武田…ばかりですけど。今年は増えた体重を蹴散らす反転攻勢を!…ってことで、初詣行きますわ。 pic.twitter.com/D7T9qnopfM

2024-01-01 00:00:12
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日光81 @nikko81_fsi

しかし、洛中なのに少ないね。穴場かも。

2024-01-01 01:09:26
日光81 @nikko81_fsi

改めまして明けましておめでとうございます、令和六年初詣は京・下御霊社。御霊…からも推察がつきますが、国家の為に尽くしながらも冤罪を受け世を去った貴人の怨霊を鎮めるための社。天正18年当地に遷座と云々。今回こちらにしたのは…武田史跡(だいぶ飛躍)だからなのです…以下ヲタク語りを少々。 twitter.com/nikko81_fsi/st… pic.twitter.com/4N5WzMFRZ0

2024-01-01 10:22:14
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天正10年、勝頼公滅亡の後、浪合、飯田を経由してその御首級は京で梟首に遭ったのは知られたところ。その場所は…「武田氏滅亡」によると、その内のひとつとして、勧修寺晴豊の「晴豊記」3月22日の条から「下御霊の的場」が示されている。まもなく六条河原に移されたのでは、とのこと。

2024-01-01 10:30:53
日光81 @nikko81_fsi

さて、中世から近世にかけて相当な変貌がある京。中世の下御霊社は果たして…天正18年に移転とあるわけなので、当然別の場所。『16世紀京都における御霊社・御霊祭の考察― 都市空間との関係に着目して ―』という論文によれば、新町通下立売上ル西側とあります。

2024-01-01 10:34:19
日光81 @nikko81_fsi

現在でいうと京都府庁旧本館、幕末の京都守護職上屋敷のあったあたり。足利義昭の二条御所の推定領域が新町通の際までありますから、天正10年段階では破却され堀も埋まってはいますが、その跡地の真隣になります。 pic.twitter.com/XqUSb5Zhi6

2024-01-01 10:37:56
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日光81 @nikko81_fsi

天正18年、秀吉によって現地に移転するわけだが、下御霊社は上御霊社と比べ中世はかなり衰微していたらしい。秀吉の京の都市政策の都合もあるだろうが、移転させられた背景には、上下の繁栄ぶりの違いもあるのかもしれない。

2024-01-01 10:44:11
日光81 @nikko81_fsi

さて…梟首の場所として、六条河原はわかるのだが、なぜ下御霊社だったのだろうか?ここからは想像を逞しくしていく。改めて御霊社は冤罪を受けた果てに無念の死を遂げた人物が祀られている。早良親王、伊予親王、藤原広嗣、橘逸勢…など。ここに武田勝頼、信勝、信豊の首級が並ぶとは… pic.twitter.com/os2srFJxBy

2024-01-01 10:52:11
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日光81 @nikko81_fsi

武田家に同情的、あるいはその無念ぶりを慮る人々がいて、これら祭神に準えたのではないか…などと勝手に考えているわけです。まもなく六条河原に晒され直されていることも、六条河原のなんたるかを知っていれば、当然信長・信忠としてあるべき姿であったことも想像できます。

2024-01-01 10:55:41
日光81 @nikko81_fsi

そうして勝頼・信勝・信豊の三公は、最終的には妙心寺の南化玄興に引き取られ供養の後、開山堂の脇に葬られるわけです。こうした経緯を考えると、いかに武田史跡とみなすにせよ、三方原450年から上洛に準えた昨年のオフ会には相応しくないことも御理解頂けるのではないかと思います。

2024-01-01 10:59:16
日光81 @nikko81_fsi

御首級は妙心寺に葬られているとはいえ、武運尽きて無念の果てに滅びた武田家の皆様がこちらにもお祀りされているような、そんな妄想をしながら、同じく無念の果てに世を去ったご祭神にもお参りし、今年の幕開けと致した次第…(了)

2024-01-01 11:03:07
日光81 @nikko81_fsi

かなりしんどいけど、勝頼公の御首級にお供する旅(景徳院~浪合~飯田~下御霊社旧地/下御霊神社~六条河原)というのもストーリーとして成り立つな…(武田クラスタには精神的にゲロつら)

2024-01-01 11:06:40