
「本能寺の変」は色々な偶然で初めて成立したので陰謀説は根本的に成りたたない、という話〜『急に信長が来たので(QNK)』

織田信長が本能寺の変の時発したとされる「是非も無し」は、風雲児信長の諦観を表す言葉と捉えられがちですが、この「是非も無し」も他の用例などからどういう意味か実はわりと研究されており、金子拓先生はこれを「考えられない」と訳され、もう少し砕けた言い方をすると「意味わからん」ですね。
2018-04-25 13:27:12
ここから信長公記の本能寺の描写も 信長「これは謀叛か、いかなる者の企てぞ」 乱丸「明智が者と見え申候」 信長「何それ意味わかんない」 と、このように見事に意味が通る会話に成るのですw
2018-04-25 13:27:12
あの天正10年、織田信長が京都に滞在したのは本能寺での3日間だけだった、と言うのはいろんな意味でドラマチックだ。本能寺の変は、本当にほんの一瞬のスキを突いた事件なのですね。
2018-11-20 00:52:31
@1059kanri ハメようとした信長が逆にハメられたってカンジでしょうね。しかし信長という当時のトップ人物が滞在する割には京都のセキュリティが低すぎなのが気になります。やはり明智単独での謀反ではないような気がします。
2018-11-20 09:56:30
本能寺に関しては、そもそも家康の接待のため堺に行く予定だった嫡男信忠が予定変更して京に滞在したのも偶々だし、信長は変当日の明後日、6月4日には出立予定だったし、そもそも秀吉からの救援要請来て急遽光秀が軍勢を組織したのも偶々なので、ハッキリ陰謀論の付け入るスキは無い。
2018-11-20 10:18:34
なので本能寺は、偶然の積み重ねが生み出してしまった決定的な「勝機」に、過敏に反応してしまった光秀の卓越した将才が引き起こした事件と言って良いのでは無いだろうか。
2018-11-20 10:25:09
光秀のこんな好機がいきなり目の前に現れたら、何も考えずに食い付いても罪はなかろうて。 というより信長自身が気を抜きすぎ、どれだけ武田が重圧だったかが分かる。 twitter.com/1059kanri/stat…
2018-11-20 10:26:22
@1059kanri せいぜいこれ、誰か(それも光秀のそばにいつもいる家臣ぐらいしかできない)が「今なら行ける」と吹き込んだ、ぐらいしか陰謀論的要素の入る余地がないですよね。連歌もおみくじすらも下手すると関係していない、もしくは後世の風説かも。
2018-11-20 10:27:01
@1059kanri >嫡男信忠が予定変更して京に滞在したのも偶々だし、 変の4日前の変更なので、信忠の在京は光秀にも伝わっていたと思われます。信長の上洛予定を光秀が知ったのもその頃でしょう。 そこから彼方此方に連絡を取る=謀議するのは、さすがに無理でしょうね。 「謀は蜜なるを貴ぶ」と言いますし🤓
2018-11-20 11:14:28
@Toshirou_m そういう、怖いくらいに眼の前にチャンスが広がって来ていた、しかも期限付き、という場に置かれた時の精神状態を考えないといけませんねw
2018-11-20 11:16:38
@1059kanri チャンスだったとしても、そのリスクを考えられなかったとすれば、よほど切羽詰まった状況に追い詰められていたとしか考えられませんね。「今なら天下が取れる」なら無謀ですし、「天下の為」なんてのは綺麗ごとで重臣たちが諌めたでしょうし、ましてや「唐入り」なんて先々の話は論外でしょうね。
2018-11-20 11:39:36
@Toshirou_m ぶっちゃけ当時の武士気質を考えると、「遺恨を晴らす」目的が第一義だったんじゃないかと考えています。天下を取る云々は二の次かと
2018-11-20 11:42:58
そーいや、この「溝口半左衛門」って、浅野家臣の亀田高綱の親父ではないだろうか。 www3.nhk.or.jp/lnews/shutoken…
2018-11-20 12:09:20
柴田勝豊家臣から浅野家に走るんですけど、このときはまだ浅野家臣じゃないだろうし、亀田と名乗ってもいないだろう。父親が織田直臣ということは、まだ柴田家臣ですらないかもしれない。1558年生まれだから、このときはまだ24歳ぐらいか…。
2018-11-20 12:16:26
@1059kanri 今でいうワンマン社長にブチ切れて後先考えずにぶん殴った社員、みたいな感じなのかな。
2018-11-20 13:19:18
@toronei @rolling_storn ですね。この世界で明智光秀の立場にいる者だけが、ほぼ確実に信長父子を滅ぼせると言う奇跡の一瞬だったわけで
2018-11-20 14:57:35