吉本隆明と80年代
吉本の清志郎評価の謎
'83年、吉本隆明はRCとスターリンの詞を称賛する文章を新聞に載せる(『相対幻論』再録)。だが、《ここ一、二年、少しもの欲しげな眼つきで、サブ・ポエムともいうべき言葉の世界を漁っていた》と始まるその文章はいつもの吉本文体で、ロックともパンクとも程遠い。あれは一体何だったんだろう。↓
2023-12-09 05:59:13吉本は新聞で「つ・き・あ・い・た・い」(82)を取り上げる。「RCで1曲」と言われてコレを選ぶファンはおるまい。一方『マス・イメージ論』(84)が引用する「三番目に大事なもの」「キミかわいいね」は10年前(72)の不遇なシングル曲だ。まず選曲が謎すぎる。↓
2023-12-09 05:59:14下衆の勘繰りだが、新聞掲載稿では「最も広告されたいであろう商品=掲載時の新譜」を選び、評論連載では「仲間内でのマウント合戦上で有利なマニアック曲」を選んだだけなのかも知れない。その程度の理由しか浮かばぬほど、これら楽曲への吉本の評言は空疎である。↓
2023-12-09 05:59:14吉本はRCには《質の高いソフトな反語》があるが、《つき刺す批判や骨をえぐるような風刺があるのでもないし、それを望んでいるのでもない》という。悪意を感じるほどの「誤読」である。忌野清志郎ほどに《つき刺す批判や骨をえぐるような風刺》を書きつづけたアーティストは稀だろう。↓
2023-12-09 05:59:14清志郎のつき刺すような批判・風刺は人を怒らせ、傷つけた。それで友人を殺したとも面罵された(日隅君の一件)。彼自身が誰より傷ついた。それでも彼はプロテストをやめなかった。これは秘密でも何でもない。まず彼らのデビュー作にしてからが「どろだらけの海」なのだから。↓
2023-12-09 05:59:15「キミかわいいね」を知る者が「言論の自由」「シュー」「この世は金さ」「甲州街道はもう秋なのさ」を知らぬ筈はない。ハード・フォークからロックに大転換した後もプロテストの姿勢は変わらない。「ぼくはタオル」「いい事ばかりはありゃしない」「あきれて物も言えない」…枚挙に暇ない。↓
2023-12-09 06:29:36吉本隆明は、素人でも分かるRCサクセションの批評性を「誤読した」。あるいは「あえて隠蔽した」。いずれにせよ二流だと思った。88年RCが正面から「反原発」を歌い、大企業と喧嘩をはじめると、吉本は《聞きしにまさるハレンチな歌詞》とRCを批判した。↓
2023-12-09 06:29:36個の商品化
RCとスターリンの共通点に着目すれば、吉本が何に惹かれていたのかが分かる。ハード・フォークの詩人がライブハウス環境で生き延びる中でパンク化した。吉本の目にはその変化が「転向」に映ったのかもしれぬ。たぶん吉本はその「転向」ぶりに共感した。(実際には彼らは「非転向」だったのだが)↓
2023-12-09 12:19:50吉本が引用したRCの「三番目に大事なもの」は、女子高生から求められる「男の子」の歌だ。《想い出を作るため》《友達に見せるため》《男の子ならだれでもいいわ》と彼女は言う。男(道具)でしかないことの屈辱と欲望との両面に苛まれる思春期を歌う。吉本はこの名曲をどう語ったか。↓
2023-12-09 12:19:51《「一番大事なもの」が自分で「三番目に大事なもの」が恋人であるような、明るく透明な世代の娘たちが、大切にされながら、諷刺される》と吉本はいう。「明るく透明な世代の」という言葉が示すように、これはもうパパの視線だ。清志郎の痛々しい言葉が届かぬ人がいる。20代の私には衝撃だった。↓
2023-12-09 14:36:20彼の言葉が世代や性別を超えて心に響くのは、世代にも性別にも関係なく、誰もがもつ残酷性を歌っているからだ。「男の子ならだれでもいいわ」の女の子の横には、勿論「女の子ならだれでもいい」の男の子がいる。否、人間なんて昔も今も誰しもそんなものだし、だからこそ誰しも夢を見る。↓
2023-12-09 14:36:21本当は誰でもいい「三番目に大事なもの」。他ならぬ《あなた》がそうなのだと聴き手は最後に告げられる。これほど《だれもみんな同じように》が暴力的に聞こえる曲は他にない。清志郎は生々しく傷つけ傷つけられる。そこから逃げない。そして、生々しく優しい。↓
2023-12-09 15:02:33RCの名曲「スローバラード」の最後のフレーズが、たまらなく好きだ。《ぼくら夢をみたのさ/とってもよく似た夢を》。あの娘の寝言を聞き、「悪い予感の欠片もないさ」と思いながら、二人が重ねている夢を「同じ夢」ではなく「とってもよく似た夢」と歌う。↓
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