法華経に現れる二重構造、文上と文底その二

大聖人の仏法を文の底から説くことの重要性に関して呟きます。偉大な戸田先生ですら、法華経解説に文上となる摩訶止観を用いた結果、事業が破綻するという罰を受けるという失敗をされています。そこで文底から法華経を説くために御義口伝を用い、奇跡の復活をされました。池田先生の晩年最後の講義も、法華経を文底から説いた御義口伝でした。
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komekome39 @komesandazo

次は、法華経に現れる二重構造、文上と文底その二、を呟く。まず最初に引用しなければいけないのは、富士一跡門徒存知の事。次のような御文がある。 「五人(五老僧のこと)一同に云く、日蓮聖人の法門は天台宗なり、仍つて公所に捧ぐる状に云く天台沙門と云云 続

2024-01-03 23:04:56
komekome39 @komesandazo

(略)日興が云く、彼の天台・伝教所弘の法華は迹門なり今日蓮聖人の弘宣し給う法華は本門なり」 又日興遺誡置文にもこうある。 「義道の落居無くして天台の学文す可からざる事」 即ち、大聖人の仏法が不理解な状態で、天台の法門を学んではいけないと。 続

2024-01-03 23:08:15
komekome39 @komesandazo

天台も大聖人も共に同じ法華経を説いているにも関わらず、なぜ違う解釈になるのか?どちらも正法を説いているにも関わらず、なぜ同一の解釈とはならないのか?仮にどちらも法華経の極理を説いているとするならば、時代によって法華経の解釈を変える必要があるという答えしかなくなってしまう。

2024-01-03 23:11:58
komekome39 @komesandazo

時代によって法華経の解釈を変える必要があるというスタンスは、御書の解釈にも同様に当てはまる。 「夫れ仏法を学せん法は必ず先づ時をならうべし」撰時抄 とあるが、仮にそうしないのであれば、次のような御文は互いに矛盾し合うので、意味不明なものになってしまうだろう。 続

2024-01-04 21:00:35
komekome39 @komesandazo

「ひとり三徳をかねて恩ふかき仏は釈迦一仏にかぎりたてまつる」 (南条殿御返事) 「日蓮は日本国の人人の父母ぞかし・主君ぞかし・明師ぞかし・是を背ん事よ」(一谷入道御書) 「本門の教主釈尊を本尊とすべし」(報恩鈔) 「法華経の教主(釈尊)を本尊とす法華経の正意にはあらず」本尊問答抄

2024-01-04 21:03:09
komekome39 @komesandazo

togetter.com/li/1235285 この矛盾する御文を解決するにはどう解釈すれば良いかという説明はこのまとめに譲る。そして、なぜ法華経、或いは御書の解釈が難解であるかという一つの理由に、こうした時代に応じた二重解釈が必要なことが挙げられるだろう。あの偉大な戸田先生でさえミスを犯すほど難しい。

2024-01-04 21:10:05
komekome39 @komesandazo

戸田先生は、難解な法華経を分かりやすく説くために摩訶止観を利用したが、受講者の理解力不足ゆえに、天台風の法華経になってしまった。そのために大きな罰を受け、当時経営していた東光建設信用組合は破綻し、借金取りに追われる身になってしまったというエピソードが人間革命4巻に掲載されている

2024-01-04 21:19:44
komekome39 @komesandazo

もう一度日興遺誡置文を思い出してみよう。 「義道の落居無くして天台の学文す可からざる事」 なぜ摩訶止観を説いてはならないのか?戸田先生の言葉を借りれば、「文上を固守するゆえに本仏は釈迦を立てて天台の域を脱することができない」(戸田城聖全集6 開目抄講義p121) から、ということだ。

2024-01-04 21:28:43
komekome39 @komesandazo

仏法の因果の理法は誠に厳しいと思う。法主であろうが会長であろうが、そうした立場は全く関係がないと言える。そして、この事業失敗の時の戸田先生を一人支えたのが、山本伸一こと池田先生だったことは有名だ。この失敗を教訓にして、戸田先生は「御義口伝」を中心とした法華経解釈に切り替える。 続

2024-01-04 21:33:57
komekome39 @komesandazo

そして奇跡の復活を成し遂げ、75万世帯の折伏を達成する。御義口伝は偽書という輩は多いが、「日蓮仏法をこころみるに道理と証文とにはすぎず、又道理証文よりも現証にはすぎず」(三三蔵祈雨事)である。先生の復活劇は真跡である最大の証拠になる。詳しくはこちらに譲る。 togetter.com/li/2233649

2024-01-04 21:41:00
komekome39 @komesandazo

それでは、法華経の解釈は時代によるということは、この経典に説かれているのか?長者窮子という喩えがあり、これは長者が跡取りの息子を上手く導いて後を継がせて臨終するという話があるが、その後には息子が長者の跡取りとなる話が続く必要がある。これが法華経の隠された二重構造と言える。

2024-01-04 22:13:14
komekome39 @komesandazo

長者窮子の喩えでは、長男に自分の財産を相続させて臨終してしまう。ところが、良医病子の譬えでは、父は、良薬を毒を飲んだ子供達に与えるために死んだふりをするが、父親を慕って薬を飲んで病気が回復した頃を見計らい、再び子供たちに再開し、生き続ける。長者も父も共に釈尊がモデルだ。 続

2024-01-04 22:28:25
komekome39 @komesandazo

この矛盾はどう解決すべきなのか?寿量品の自我偈には、 「常に私(釈尊)はここに在って滅することはないが、方便力の故に滅も不滅もあると現れるのである(略)衆生の心が仏を恋慕したならば、私はそこに出現して衆生のために法を説く」現代語訳 新・法華経論(須田晴夫) と説かれるが、 続

2024-01-04 22:34:30
komekome39 @komesandazo

ここには大きな落とし穴がある。「衆生の心が仏を恋慕したならば」という条件付きなのだ。仮に衆生が仏を恋慕しなければ、そして、子供たちが父親を慕って薬を飲まなければどうなるか?仏は霊鷲山に現れることは永久になく、入滅してしまうだろう。又、父親は二度と子供たちに会うことはないだろう。

2024-01-04 22:40:15
komekome39 @komesandazo

そして末法悪世とはどのような時代か?方便品にはこう説かれる。同須田氏の現代語訳より 「仏の入滅後で、眼前に仏がおられない場合は別である。なぜならば、仏の滅後に、これらの経を受持・読誦し、その意義を理解する者は得難いからである。」 即ち、衆生が仏を恋慕する時代ではないのだ。

2024-01-04 22:48:31
komekome39 @komesandazo

huntingtonarchive.org/resources/down… サンスクリット版の法華経(英訳)は更に手厳しい。「釈尊滅度法華経を理解して説法する者はだれもいなくなる・・」、としている。自分は釈尊を恋慕しているから大丈夫と身延の輩は考えるだろうが、実はそれは間違いだ。 続 pic.twitter.com/ysePNvkPOD

2024-01-04 22:57:08
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komekome39 @komesandazo

末法悪世では仏を恋慕する者はいなくなるという方便品の予言を信じなければ、仏を恋慕していることにはならない。従って仏は入滅してしまい、助けはない。即ち、釈迦を本仏としたら助けなどないのだ。しかしこの方便品には先程の英訳にもある通り、続きがある。今度は日本語訳を載せる。 続

2024-01-04 22:59:45
komekome39 @komesandazo

「しかし、他の仏に出会うならば、この法を確信することができるであろう。」 即ち、悪世末法では、釈尊以外の仏(仏達)に頼る必要があると法華経方便品ではちゃんと説いているのだ。この仏こそが、長者の臨終後に長者の後を継ぐ息子であり、神力品にて釈尊から口決相承を受ける末法の御本仏である。

2024-01-04 23:06:13
komekome39 @komesandazo

それでは、この方便品に説かれる悪世末法における「他の仏」の出現は、寿量品とどう繋がるのか?良医病子の譬えに誤って毒を飲んでしまった二種類の子供たちが説かれる。一方は、良医の指示に従い、薬を素直に飲む子供達。もう一方は、毒が深く体内に回ってしまい、薬を拒絶する子供達だ。 続

2024-01-12 21:43:29
komekome39 @komesandazo

前者は仏在世であり、後者は仏滅後という法華経の二重構造がここでも現れる。薬を拒絶する(仏滅後の)子供達のために、この親は、ここに良薬を置いておくと、言い残して他国に行き、そこから使いをよこして、方便として、「あなた方の父は死んでしまった」という。遣使還告といわれる箇所だが、 続

2024-01-12 21:54:10
komekome39 @komesandazo

親の使い(仏の使者)として使わされたこの遣使こそが、上行菩薩その人ということがいえる。それではこれが方便品の「他の仏」とどう繋がるのか?大聖人は一切衆生にとって主師親の三徳を備えた仏というのが開目抄の核心部分だが、毒薬(謗法)を飲んだ子供達にとっての親なのだから、 続

2024-01-12 21:59:05
komekome39 @komesandazo

仏の使いとして使わされたその人(上行菩薩)とは外用にすぎず、この仏の使いの正体は、一切衆生にとっての親、即ち仏そのもの(久遠元初の自受用報身如来)であったということになる。単なる菩薩や如来の使いが、が主師親の三徳を備えている道理はないのだ。だから末法では「他の仏」が御本仏となる

2024-01-12 22:05:43
komekome39 @komesandazo

更に法華経寿量品を詳しく拝読するならば、実は文上の釈尊は永遠の仏などでは決してないのだ。その文証が「我本行菩薩道」の金言。即ち、五百塵点劫の当初、仏となる前は、何らかを師匠として菩薩道を行じていたということだ。無限の過去から仏だったわけではない。では御書には何と説かれるか? 続

2024-01-04 23:16:57
komekome39 @komesandazo

「本門を以て之れを疑わば教主釈尊は五百塵点已前の仏なり因位も又是くの如し」観心本尊抄 五百塵点已前とはあるが、無始無終とは説かれていない。それでは菩薩道を修行していた釈尊は御書にどう説かれるか? 「不軽菩薩は過去に法華経を謗じ給う罪・身に有るゆへに瓦石をかほるとみへたり」開目抄 続

2024-01-04 23:22:00
komekome39 @komesandazo

即ち、何かを師匠として仏になった迹仏であるということが言える。又その寿命も、「その寿命はこれまで過ぎてきた時間の倍である」(現代語訳 菅田氏)とあり、実は始めも終わりもある有限の仏に過ぎない。従って、釈尊が根源の仏であるということは言えないのだ。 続

2024-01-04 23:28:40
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