法華経に現れる二重構造、文上と文底その二

大聖人の仏法を文の底から説くことの重要性に関して呟きます。偉大な戸田先生ですら、法華経解説に文上となる摩訶止観を用いた結果、事業が破綻するという罰を受けるという失敗をされています。そこで文底から法華経を説くために御義口伝を用い、奇跡の復活をされました。池田先生の晩年最後の講義も、法華経を文底から説いた御義口伝でした。
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komekome39 @komesandazo

池田先生は法華経の智慧5巻p277で次のように述べている。 「(釈尊の)永遠性といっても、完全に永遠ではない。どこまでも「有始(始めがある)」の仏です。だから無始無終の宇宙即妙法と一体とは言えない」 なぜ釈迦の仏像が、大聖人の文字曼荼羅よりも劣るのか?その理由の一つがこれだ。 続

2024-01-04 23:32:51
komekome39 @komesandazo

一代五時鶏図について少し呟いてみるか。

2024-03-12 21:50:21
komekome39 @komesandazo

一代五時鶏図に、久成の三身 応身 報身 法身 無始無終 という御文があり、これは我本行菩薩道という有始と矛盾してしまう。これはどう考えるべきだろうか?実はこれは、寿量品を文底から説いた「我等が己心の釈尊は五百塵点乃至所顕の三身にして無始の古仏なり」という御文と同じと捉えるべきだ。

2024-03-12 21:54:29
komekome39 @komesandazo

即ち、文上の久遠実成を用いながらも、その文底の久遠元初を説き表したと捉えるべきなのだ。そうすれば、我本行菩薩道との矛盾は生じない。なぜここで大聖人が意図的にそのような解き方をされたかは、続きの御文を読めば一目瞭然だ。 「華厳宗・真言宗の無始無終の三身を立つるは、天台の名目を 続

2024-03-12 22:00:56
komekome39 @komesandazo

盗み取って自らの依経に入れしなり」 即ち、毘盧遮那仏の無始無終に対抗するために、あえて文底から説いたとみるべきなのだ。「大日経の疏に云わく「大日如来は無始無終なり」。遥かに五百塵点に勝れたり、いかん。答う。毘盧遮那の無始無終なること、華厳・浄名・般若等の諸大乗経にこれを説く 続

2024-03-12 22:06:42
komekome39 @komesandazo

」法華真言勝劣事 この御書は真筆はないが、こうした無始無終に関する論争があったことは当然容易に想像できる。従って、こうした論争のためにあえて文底から説いたと捉えるべきであり、これをもって文上の教主釈尊を無始無終と捉えるのは、因位を無視する矛盾を含む解釈なので、誤りである。

2024-03-12 22:09:37
komekome39 @komesandazo

twitter.com/komesandazo/st… これは5年も前の私の呟きだが、この内容を破折していなかったな。無始無終の宇宙即妙法の仏と絡めて、破折しておこう。

2024-01-04 23:37:35
komekome39 @komesandazo

@IXp084eMjqlwBw2 貴方が私にリプしたこの呟きの内容、これは釈迦本仏論を唱えているLibra氏とまったく同様のものだ。ここら辺から貴方は拾ってきたのではないのですか?しかし、どうも釈迦本仏論は旗色が悪いので、急遽、凡夫本仏論に変えたのではないのですか?RT 私がいつ釈迦本仏論を唱えたのですか。 pic.twitter.com/ydogaqS7mt

2018-05-07 23:41:09
komekome39 @komesandazo

「今本時の娑婆世界は三災を離れ四劫を出でたる常住の浄土なり仏既に過去にも滅せず未来にも生ぜず所化以て同体なり」 だから釈尊の生命は永遠不滅であり、末法においても根源の仏であると言いたいのだろうが、これは観心本尊抄の切文に過ぎない。この後には何と続くかを読まなければならない。 続

2024-01-04 23:41:27
komekome39 @komesandazo

「同体なり此れ即ち『己心』の三千具足・三種の世間なり」と続くのだ。では『己心』とはどなたの己心なのか? 在世の舎利弗等の釈尊の弟子たちの己心の仏界が未来永劫に続くことを表している。つまり生命に内在する仏界の永遠性を説いたものであり、釈迦が本仏としての永遠性を説いたものではない。

2024-03-06 20:34:52
komekome39 @komesandazo

twitter.com/komesandazo/st… 観心本尊抄は法華経を文底から説いている理由は、一念三千の法門に関して言及しており、大曼荼羅(御本尊)に関して説いているからだが、この二重構造を読み解いて得られる結果はこうなる。 日蓮とその弟子の地涌の菩薩(菩薩仏)は無始無終。 釈尊は有始有終。

2024-01-05 00:01:13
komekome39 @komesandazo

この答えは開目抄のこの御文にある。 「一念三千の法門は但法華経の本門・寿量品の文の底にしづめたり」 又曰く「一念三千の法門をふりすすぎたてたるは大曼荼羅」草木成仏口決 即ち、法華経の文上だけを読んだのでは、御本尊とは何かという問いには決して答えることができないということだ。 続

2023-12-30 23:40:15
komekome39 @komesandazo

この関係性から、師匠と弟子の関係性が完全にひっくり返ってしまう。法華経迹門では、三千塵点劫という昔、釈尊の師匠であり親であり主人であった大通智勝仏が登場するが、五百塵点劫という更なる過去を寿量品で用意することで、この関係性がひっくり返り、釈尊>大通智勝仏となる。 続

2024-01-05 00:05:00
komekome39 @komesandazo

「釈尊は我等(大聖人とその弟子)がためには賢父たる上明師なり聖主なり」下山御消息 とあり、文上では、釈尊は、大聖人にとっては師匠であり親であり主人であるが、文底では、日蓮とその弟子等は無始無終であり、釈尊は有始有終であるから、日蓮>釈尊 となる。関係が完全にひっくり返る。

2024-01-05 00:11:58
komekome39 @komesandazo

twitter.com/komesandazo/st… ここで疑問が起きる。不軽菩薩は過去世において謗法を犯したが、それではその更に前はどうであったのか?仏法とは無縁の存在であったのか?御書に答えがないので推測になるが、何らかの縁があって仏果を得たことも当然あるはずだ。しかし連続して仏ではないということだな。

2024-01-05 22:54:02
komekome39 @komesandazo

「本門を以て之れを疑わば教主釈尊は五百塵点已前の仏なり因位も又是くの如し」観心本尊抄 五百塵点已前とはあるが、無始無終とは説かれていない。それでは菩薩道を修行していた釈尊は御書にどう説かれるか? 「不軽菩薩は過去に法華経を謗じ給う罪・身に有るゆへに瓦石をかほるとみへたり」開目抄 続

2024-01-04 23:22:00
komekome39 @komesandazo

池田先生は法華経の智慧5巻p277で次のように論じている。 「(釈尊は)無始無終の宇宙即妙法と一体とは言えない。”すき間”がある」と。即ち、釈尊もその生命自体は永遠なのは当然だが、謗法を犯した期間という”すき間”があるため、宇宙生命と一体の永遠の根源仏とは言えないということだな。

2024-01-05 22:57:51
komekome39 @komesandazo

さて話を法華経の二重構造に移そう。法華経には文上(長者窮子の長者が現役の時代の話)と、文底(長者が臨終して息子が後を取った時の話)という構図が成り立つことは前説明したが、この二重構造を念頭に置くと、様々な法華経や御書に関する難問が解けてしまうのだ。それでは試してみよう。 続

2024-01-05 23:08:02
komekome39 @komesandazo

問題その一 「妙法蓮華経の左右に釈迦牟尼仏・多宝仏・釈尊の脇士上行等の四菩薩」観心本尊抄 とあり、釈尊の脇士が上行の大聖人となっているのがわかる。ところが末法の御本仏は大聖人である。又、大聖人を供養する功徳は釈尊より百千万億倍勝る。この矛盾はどう説明すべきか togetter.com/li/2255964

2024-01-05 23:14:11
komekome39 @komesandazo

仮に法華経の二重構造を考慮しないならば、八品派日隆の一仏二名(本仏が釈尊で釈仏が大聖人で、この二人が都合に合わせて交互に登場する)ような滅茶苦茶な答えになってしまうだろうな。これは完全な邪義。 「四天下の中に全く二の日無し四海の内豈両主有らんや」顕仏未来記 続

2024-01-05 23:21:48
komekome39 @komesandazo

戸田先生はこの御書の講義(戸田城聖全集6p)で、「今東洋中に日蓮ただ一人が仏である。仏というものは、二人が同時代に出ることはないのです。(略)真実の仏様というのは一仏にかぎるのです」と、こうした説を完全否定している。 そして実は、この戸田先生の言葉に先程の問題を解くヒントがある。 続

2024-01-05 23:27:06
komekome39 @komesandazo

「釈尊の脇士上行」これを正法時代で考えるならば、釈迦という一仏の弟子上行で全く問題ないが、末法という時代で解釈したら、当然別の意味合いを持つと考える必要がある。観心本尊抄には何と説かれているか?それを読む必要がある。 続

2024-01-05 23:32:09
komekome39 @komesandazo

「釈迦・多宝・十方の諸仏は我(日蓮)が仏界なり」 「我等(大聖人とその弟子)が己心の釈尊は五百塵点乃至所顕の三身にして無始の古仏なり」 「上行・無辺行・浄行・安立行等は我等(大聖人とその弟子)が己心の菩薩なり」 これが答えになる。ここで重要なのは、大聖人お一人の仏界に限定している 続

2024-01-05 23:37:21
komekome39 @komesandazo

ものこそが「釈迦・多宝・十方の諸仏」であるということだ。一方で、上行等は大聖人とその弟子たちの菩薩界を表しているということになる。ここにインドの釈尊の出る幕はない。即ち、釈尊の脇士の上行とは、大聖人の己心の釈尊と、弟子である地涌の菩薩の己心との関係ということになるのだ。 続

2024-01-05 23:41:22
komekome39 @komesandazo

即ち、「釈尊の脇士上行」という御文は、インドの釈尊と日本の大聖人の優劣の比較ではないのだ。一方で、大聖人を供養する功徳は釈尊よりも遥かに勝るというのは、この両者の比較であり、何ら矛盾しないことになる。どうだろうか?法華経の二重構造を考えたならば、こうした難問が見事に解ける。 続

2024-01-05 23:46:07
komekome39 @komesandazo

これは以前のまとめで既に答えを出したものだが、大事なのでもう一度呟いておく。 問題その二 虚空会の儀式で釈尊から大聖人へと題目が口決相承され、その後この儀式は終了し、多宝仏は宝塔を閉じて地中に戻るが、御義口伝には「霊山一会儼然未散」とある。 この儀式がいまだに続いているのはなぜか 続

2024-01-05 23:54:20
komekome39 @komesandazo

法華経には文上(長者窮子の長者が現役の時代の話)と、文底(長者が臨終して息子が後を取った時の話)という二重構造を考えれば、簡単に説明がつく。文の底から寿量品を読んだら、釈迦と地涌の菩薩の関係は、観心本尊抄に示されているように、こうなる。 twitter.com/komesandazo/st…

2024-01-06 21:17:19
komekome39 @komesandazo

即ち、己心の釈迦(日蓮)から、己心の上行菩薩(大聖人の弟子)への口決相承こそが、文底から解釈した虚空会の儀式ということになる。要するに御本尊の前で唱題することが、虚空会の儀式につながるのだ。「霊山一会、儼然未散」という御義口伝の御文を戸田先生は獄中にて、身で読んだと言われたが、

2024-01-06 21:27:23
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