法華経に現れる二重構造、文上と文底その二

大聖人の仏法を文の底から説くことの重要性に関して呟きます。偉大な戸田先生ですら、法華経解説に文上となる摩訶止観を用いた結果、事業が破綻するという罰を受けるという失敗をされています。そこで文底から法華経を説くために御義口伝を用い、奇跡の復活をされました。池田先生の晩年最後の講義も、法華経を文底から説いた御義口伝でした。
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komekome39 @komesandazo

法華経を文底から解釈した観心本尊抄(この理由は以前説明したので省略する)と、見事に説明がつく。追加として、以前私は主題の題目の下に大書された「日蓮」の二文字の相貌を、神力品に求めたが、「霊山一会、儼然未散」 を考慮するならば、 続 togetter.com/li/2151216 togetter.com/li/2225312

2024-01-06 21:39:47
komekome39 @komesandazo

文底にあらわれる御本尊の相貌は、寿量品只一品でなければならない。なぜなら、文上での虚空会の儀式は既に終了したが、文下では、宇宙生命で、大聖人の、そして私たちの己心の寿量品でまだ続いているからだ。「未だ寿量の仏有さず」とはこのことだ。なお、八品に御本尊の相貌が現れるというのは誤り。

2024-01-06 21:49:05
komekome39 @komesandazo

八品に御本尊の相貌が現れるというのは、日隆(本仏が釈尊で釈仏が大聖人で、この二人が都合に合わせて交互に登場するという一仏二名を唱えた日朗関連の僧侶)が唱えた説で、だから八品派と言われる。この説は、観心本尊抄講義で戸田先生にボコボコに破折されていたな。ここではこれ以上取り上げない。

2024-01-06 21:57:19
komekome39 @komesandazo

問題その三 サンスクリット版の法華経では二処二会の構造だが、鳩摩羅什の翻訳では二処三会となっている。これはなぜか? これは残念ながら学会の書物にも答えが見つからない、以前のまとめで私の仮説を述べたが、法華経の二重構造にその答えがあるのは間違いないと思う。 togetter.com/li/2151216

2024-01-06 22:16:01
komekome39 @komesandazo

正法時代には二処二会が正しく、末法時代には二処三会が正しい。これ以外の答えは私には見つからない。その理由は、迹化の菩薩が広宣流布を許されるのは象法時代までであり、地涌の菩薩と末法で虚空会の儀式にて同席することは許されない。鳩摩羅什は当然こうした二重構造を認識していたので、 続

2024-01-06 22:22:07
komekome39 @komesandazo

それを踏まえて、末法の経典のために、二処二会の形体を変更し、途中で迹化の菩薩霊を霊鷲山、即ち地上に下ろすという翻訳をしたのだろう。こう考えた場合、嘱累品にて塔を閉じて地中に戻った多宝仏が、なぜ薬王品の最後にて登場するのかという謎も解ける。これは鳩摩羅什の翻訳ミスなどではない。 続

2024-01-06 22:30:37
komekome39 @komesandazo

「霊山一会、儼然未散」(御義口伝)「心性の妙蓮忽ちに開き給うか」(忘持経事) 即ち、文底の多宝仏の宝塔は開き続けているのだから。そして、薬王品以降は、末法にて、信仰以外の場面で地涌の菩薩を助ける迹化の菩薩の活躍を説いているからだ。

2024-01-06 22:39:18
komekome39 @komesandazo

homyou.hello-work.jp/ron10.html 以上のようなことを踏まえた上で、身延系と思われる人の、創価学会批判をしている方のHPを見ると面白い。法華経の二重構造を念頭に置いたら、いとも簡単に破折できてしまうだろう。突っ込みどころは、私がスクショして引用したこの部分。 pic.twitter.com/J1TgYRB9RQ

2024-01-06 22:53:11
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komekome39 @komesandazo

五老僧は「天台沙門」、即ち天台の弟子を名乗りましたよね。それならば、「天台大師や伝教大師が弘められた法華経の法門」と大聖人の法華経は同一のものでなければならないですよね。それを認めないなら、法華経には二重の意味を持つことになりますよね。そうなら「教主釈尊の御使」はどうなりますか?

2024-01-06 22:57:14
komekome39 @komesandazo

ここからこの人の議論は完全崩壊することになる。文の底を考えることの重要さが今までの議論から分かったのではないかと思う。 追加として『日蓮聖人あって始めて釈尊の予言が実証されたと云う面を強調されて「教主釈尊より大事な行者」と言われているのです』 この議論は完全な暴論。 続

2024-01-06 22:59:48
komekome39 @komesandazo

五次方程式は代数的に解くことは不可能なことを証明する理論を完成させたのはガロアですが、それを世に広めて彼の偉大さを世に知らしめたのはリウヴィルです。この場合リウヴィル>ガロアとなりますか?違うでしょ。論理崩壊ですな。 単なる釈尊の使いが釈尊より大事であるはずがないでしょうが。

2024-01-06 23:05:38
komekome39 @komesandazo

問題その四 諫暁八幡抄では釈尊の仏法を月に、大聖人の仏法を日に喩え、太陽の仏法が月の仏法よりも勝ることを説いているが、釈尊の経の全てを大聖人が受け継いだにもかかわらず、大聖人の経=釈尊の経とはならないのはなぜか?

2024-01-07 12:15:21
komekome39 @komesandazo

これは法華経そのものを拝読する必要がある。三枝充悳の法華経現代語訳・神力品より、「多くの仏の道場に座していて得たもうたところの秘密の要点となる法を、よくこの経を受持するものは、長い間たたないうちに、またまさに得るだろう」。 続

2024-01-07 13:32:17
komekome39 @komesandazo

「よくこの経を受持するもの」の経とは、文脈上から法華経を示している。一方で、法華経を修行することで得られる「多くの仏の道場に座していて得たもうたところの秘密の要点となる法」とは、法華経ではない。前者は秘密の宝そのものなのに対し、後者は秘密の宝を指し示す地図に過ぎない。 続

2024-01-07 13:36:50
komekome39 @komesandazo

即ち、長者の息子が受け継いだものは、宝のありかを指し示す地図でしかなく、息子が宝そのものを得たのであれば、この地図はもはや不要(宝を発見する方法の証拠とはなるが)になる。なぜ大聖人の仏法が釈尊より勝るのか。そしてなぜ、末法では法華経は役に立たないのかという理由がこれだ。 続

2024-01-07 13:40:21
komekome39 @komesandazo

大聖人も釈尊も同じ仏である以上、仏としての資質に大きな開きがあるとは私は思えない。しかし、御本尊に書写された賛嘆文「若悩乱者頭破七分・有供養者福過十号」が指し示すように、功徳に巨大な差が生じるため、そして、受け継ぐ法がこの両者では異なるため、大聖人>釈尊となることが言えると思う。

2024-01-07 13:58:50
komekome39 @komesandazo

問題その五 大聖人の曼荼羅には、主題の題目の下に必ず大書された「日蓮」(これが欠けた曼荼羅は一つも存在しない)と、釈尊の脇士として書写された上行菩薩の二人が同時に存在しているが、これはどのような意味を持つのか?

2024-01-21 11:04:21
komekome39 @komesandazo

togetter.com/li/2151216?pag… この問題は、去年の4月くらいに既にこのまとめで呟いていて、この一連のツリーに答えがあるのだが、 twitter.com/komesandazo/st… 重要な内容なので、もう一度整理してこの問題に取り組んでみる。今度は法華経と御書は勿論、戸田先生の講義と三位日順の文献を取り上げて補強する

2024-01-21 11:10:25
komekome39 @komesandazo

pounceatron.dreamhosters.com/nichirenscoffe… 大聖人の曼荼羅には必ず題目の下に「日蓮」と書写され、初期の本尊から最晩年に至るまで、これが省略された御本尊は一つとして存在しない。日興、日目の書写された御本尊も全く同様だ。一方で、釈迦は大聖人のみならず、日興書写の本尊にも省略されたものがあり、 続く

2023-04-16 13:30:33
komekome39 @komesandazo

実は御本尊の相貌を示す重要御書の一つ、報恩抄にも二体の釈迦が登場するのだ。 「本門の教主釈尊を本尊とすべし、所謂宝塔の内の釈迦多宝・外の諸仏・並に上行等の四菩薩脇士となるべし」 即ち、本尊となる釈尊と、その脇士となる釈尊とその他だ。これは法華経に照らしてどのような意味を持つのか?

2024-01-21 11:22:45
komekome39 @komesandazo

前にも述べたことだが、神力品にその答えがある。宝塔内の釈迦と、宝塔の下で法華経を説く釈迦だ。三枝充悳の法華経現代語訳より引用してみる。 ①「釈迦牟尼仏が多宝如来と共に、宝の塔の中におられて、獅子座に座しておられる」 これが宝塔内の釈迦。

2024-01-21 11:28:35
komekome39 @komesandazo

②「この無量・無辺・百千万億・無数の世界を過ぎて、国があり、それを娑婆と名付ける。この中に仏がおられて、釈迦牟尼仏と名付け奉る。今多くの菩薩摩訶薩のために大乗経の妙法蓮華経という名の、菩薩を教える法、仏に護り念ぜられるものと名づけられるものを説いておられる」 これが宝塔下の釈迦。

2024-01-21 11:30:32
komekome39 @komesandazo

二体の釈迦が同時に別の場所で登場するのは何故なのか?この謎を解く鍵は法華経の序品にある。法華経のサンスクリット版を読むと、鳩摩羅什訳には登場しない象とかゴブリンとか何十万という意味不明なクリエイチャーが登場する。この時点で法華経は単なるおとぎ話だという印象を持ってしまう。 続

2024-01-21 11:36:19
komekome39 @komesandazo

この意味不明な衆生に関して、戸田先生は次のように講義されている。 「何十万と集まったのは釈尊己心の声聞であり、釈尊己心の菩薩なのです。何千万いたって差し支えない。しかして釈尊己心の本尊を序品からさき大空中へ、虚空会に描いたといって一向に差し支えないのです」(戸田城聖全集6p592)

2024-01-21 11:52:49
komekome39 @komesandazo

これは戸田先生の日如御前御返事の講義で、一度はどこかで聞いたことがあるのではないかと思う。ここに二体の釈尊(或いは日蓮)が曼荼羅に登場する謎の答えが全て集約されている。更にいうなら、私が過去のまとめで四度に渡り間違えまくった内容(既に消去)の答えがちゃんとあるのでそれも引用する。

2024-01-21 11:57:57
komekome39 @komesandazo

「久遠元初の儀式を、釈尊は涌出品から嘱累品にいたる八品の間に説きあらわし、御本尊を完成するのです。そしてその眼目は寿量品に入れてあるのです」(同全集p 593) 戸田先生恐るべし。こんな答えは私では絶対に出せない。御本尊とは何かを知りたければ、この御書講義が最上のものとなるだろう。

2024-01-21 11:59:59