法華経に現れる二重構造、文上と文底その二

大聖人の仏法を文の底から説くことの重要性に関して呟きます。偉大な戸田先生ですら、法華経解説に文上となる摩訶止観を用いた結果、事業が破綻するという罰を受けるという失敗をされています。そこで文底から法華経を説くために御義口伝を用い、奇跡の復活をされました。池田先生の晩年最後の講義も、法華経を文底から説いた御義口伝でした。
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komekome39 @komesandazo

日如御前御返事の戸田先生の講義。著作権の問題があるので、勿論全文はここで掲載できず、私のtogetterのエッセイの補強のための引用として抜粋することに留めているが、是非とも創価学会は、これを再出版して欲しいと強く望むものである。御本尊の秘密の全てがここに集約されているからだ。 続

2024-01-21 12:03:47
komekome39 @komesandazo

話を元に戻そう。法華経序品において何千万と集まった衆生たちは全て釈尊の己心を表す存在であるならば、宝塔内の釈迦・多宝もやはり同様であり、釈尊の己心の仏界を表す比喩表現でしかない。宝塔の下の娑婆世界(霊鷲山)にて法華経を説法する釈迦、これが本体の釈尊だ。 続

2024-01-21 12:12:29
komekome39 @komesandazo

そして、この娑婆世界の釈尊に対して、虚空会に集った何千万という衆生(釈迦・多宝・上行を含む)が一斉に礼拝する。南無釈迦牟尼仏、南無釈迦牟尼仏と。これで中心となる仏、即ち本仏が誰であるかが決定的となる。釈尊中心の世界観、即ち神力品に説かれた正法時代の法華経の世界だ。 続

2024-01-21 12:18:01
komekome39 @komesandazo

このような観点で見たならば、大聖人の大曼荼羅の主題の南無妙法蓮華経の下に来るものは、娑婆世界で説法する「釈迦如来」の四文字でなければならない。それ以外の回答はないはずだ。ところが大聖人の大曼荼羅には何と書写されているか?「日蓮」の二文字だ。これは何を意味するか? 続

2024-01-21 12:22:28
komekome39 @komesandazo

これこそが教主交代だ。神力品で説かれている、釈尊の持つ全ての法が上行菩薩に渡ったことを意味し、長者窮子の喩えで説かれる、長者の持つ全財産がその息子に渡り、長者が逝去して息子が後を継ぐことを意味している。 そのようなことは日蓮の御書に説かれているのか? 続

2024-01-21 12:35:26
komekome39 @komesandazo

撰時抄に間接的に説かれている。 「彼のにくみつる一の小僧(大聖人のこと)を信じて無量の大僧等八万の大王等、一切の万民・皆頭を地につけ掌を合せて一同に南無妙法蓮華経ととなうべし、例せば神力品の十神力の時・十方世界の一切衆生一人もなく娑婆世界に向つて大音声をはなちて 続

2024-01-21 12:47:22
komekome39 @komesandazo

南無釈迦牟尼仏・南無釈迦牟尼仏・南無妙法蓮華経・南無妙法蓮華経と一同にさけびしがごとし(略)南無日蓮聖人」

2024-01-21 12:48:41
komekome39 @komesandazo

ここで重要なのは、南無釈迦牟尼仏から南無日蓮聖人へと移行していることである。南無とは自分の生命を捧げること(帰命)という意味なので、末法において、帰命する対象が釈迦から日蓮に移行したことを暗示していると見てよい。「夫れ仏法を学せん法は必ず先づ時をならうべし」とはこの意味だ。

2024-01-21 13:14:00
komekome39 @komesandazo

なお、サンスクリット語の法華経では、この宝塔の下に多宝仏もいて、釈迦と多宝仏の両方に十界の衆生が礼拝する(メインは勿論釈尊だが)場面が登場するが、鳩摩羅什は彼の訳で、多宝仏を省いている。これは、未来の仏がこの娑婆世界に現れることを読み取って、意図的に省いたと考えられる。

2024-02-08 23:24:25
komekome39 @komesandazo

huntingtonarchive.org/resources/down… 折角なので、サンスクリット版(英訳)のその場面をここで提示しておくか。the Lord Prabhûtaratna, the Tathâgata=多宝仏 pic.twitter.com/aQIClLRRGK

2024-02-08 23:36:33
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komekome39 @komesandazo

この鳩摩羅什の法華経の理解は凄まじいものがあると思う。日本の訳のわからぬ宗教学者たちの及ぶものではないのは明らかで、天台大師や戸田城聖先生に匹敵するのではないかと思う。

2024-02-08 23:26:55
komekome39 @komesandazo

即ち、正法時代においては釈尊の弟子であり、脇士であった上行が、末法に入ると釈尊と交代し、釈尊のいた席に座り、それを宝塔内の釈尊が「南無日蓮聖人」と礼拝するという逆転が起こるということだ。師匠と弟子が入れ替わるのだ。 そのようなことは法華経に説かれているのか?

2024-01-21 13:29:59
komekome39 @komesandazo

法師品に説かれている。「釈尊の弟子が、釈尊の部屋へ入り、釈尊の衣を着て、釈尊の椅子に座って説法する」という箇所がそれだ。大聖人の大曼荼羅には、本来は釈尊が着く席に確かに「日蓮」とある。又法師品にこうある。この弟子を供養する功徳も、誹謗する罰も、釈尊よりも遥かに勝る、と。

2024-01-21 13:40:42
komekome39 @komesandazo

togetter.com/li/2255964 戸田先生も池田先生も、この箇所「若悩乱者頭破七分・有供養者福過十号」を解釈して、大聖人は釈尊を遥かに超えた御本仏であると講義されている。即ちこの箇所は、未来に仏となる方を釈尊が褒め称えていると捉えて間違い無いだろう。 このような思想が日興門流にあるのか?

2024-01-21 13:43:47
komekome39 @komesandazo

mitene.or.jp/~hokkekou/yous… 日興の直弟子で、重須本門寺(大石寺ではない)の二代学頭の三位日順の『誓文』に次のような記述がある。 「未曽有の大漫荼羅・所在の釈迦多宝十方三世諸仏・上行無辺行等普賢文殊等の諸薩埵・身子目連等の諸聖・(略)・別して本尊総体の日蓮聖人」 続 pic.twitter.com/YYCxHGvTa3

2024-01-21 13:51:11
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komekome39 @komesandazo

『誓文』で最も重要な箇所は、「別して本尊総体の日蓮聖人」であり、戸田先生の日如御前御返事講義の重要ポイント(霊鷲山に集ってきた何千万という大衆は全て釈尊の己心を表す存在)と見事に重なる。又彼の『本門詮要抄』には、「久遠元初の自受用身とは蓮祖大聖人のことなり」とあり、日蓮本仏論を

2024-01-21 13:59:42
komekome39 @komesandazo

仄かしている。これでなぜ大曼荼羅に二人の日蓮大聖人が登場するのかという謎が解けたかと思う。釈尊の脇士の上行とは大聖人の己心の存在(観心本尊抄にもそう説かれている)でしかなく、主題の題目の下に大書された「日蓮」が本体であるということが言える。

2024-01-21 14:05:53
komekome39 @komesandazo

「此の事(観心の本尊)日蓮身に当るの大事なり之を秘す」 観心本尊抄送状 この御書は今まで論じてきたことを仄かしていると解釈すべきだ。仏とはどこか遠い世界にいるものではない、三類の強敵の迫害に耐えつつ、娑婆世界で妙法を説法教化する仏のお姿そのものが曼荼羅に刻まれていると言えるのだ。

2024-01-21 14:14:16
komekome39 @komesandazo

そしてその仏とは、南無妙法蓮華経と一体の仏でなくてはならない。日興上人は大聖人の大曼荼羅を指して、『御経聖人』と呼ばれた。即ち、 「日蓮がたましひをすみにそめながしてかきて候ぞ信じさせ給へ、仏の御意は法華経なり日蓮がたましひは南無妙法蓮華経にすぎたるはなし」 となるのだ。

2024-01-21 14:17:29
komekome39 @komesandazo

これが最後の問題。 釈尊が持つ法が南無妙法蓮華経ではないという証拠はあるか?「仏の御意は法華経なり日蓮が・たましひは南無妙法蓮華経に・すぎたるはなし」経王殿御返事 が最も単純かつ明快な答えだが、この御書には真筆がないため、偽書だと騒ぐ連中が大勢いる。しかし答えが揺るぐことはない。

2024-01-07 14:35:00
komekome39 @komesandazo

「色心不二なるがゆへに而二とあらはれて仏の御意あらはれて法華の文字となれり、文字変じて又仏の御意となる」木絵二像開眼之事 この初期の御書から、最晩年の御書「経は法華経・顕密第一の大法なり、仏は釈迦仏・諸仏第一の上仏なり」新田殿御書 まで、悉く釈迦=法華経であり、釈迦=題目ではない。

2024-01-07 14:38:58
komekome39 @komesandazo

「仏の御意は法華経なり」という箇所は、真筆御書を用いて、その正しさを証明するのは容易だ。だが、次の「日蓮が魂は南無妙法蓮華経にすぎたるはなし」の箇所の証明は非常に難しい。だが、その方法を思いついた。答えは全て観心本尊抄に出ていた。それが次の御文になる。 続

2024-04-20 21:22:56
komekome39 @komesandazo

宝塔品に云く「其れ能く此の経法を護る事有らん者は則ち為れ我及び多宝を供養するなり、乃至亦復諸の来り給える化仏の諸の世界を荘厳し光飾し給う者を供養するなり」等云云、釈迦・多宝・十方の諸仏は我が仏界なり其の跡を継紹して其の功徳を受得す「須臾も之を聞く・即阿耨多羅三藐三菩提を究竟 続

2024-04-20 21:24:52
komekome39 @komesandazo

するを得」とは是なり。 観心本尊抄 この御文で重要なのは「釈迦・多宝・十方の諸仏は我(日蓮)が仏界なり」の箇所。これは遠回しの表現だが、自分は仏であると大聖人は仰っておられる。そして、その次に続く御文「我等が己心の釈尊」とは異なり、一人称で、この立場に在る者を一人に限定している 続

2024-04-20 21:30:16
komekome39 @komesandazo

加えて重要なのが「其の跡を継紹して」の箇所。大聖人は釈迦・多宝仏から何を継紹されたのか?それは、この御文の前に大聖人が引用された宝塔品を読めば明らかだ。それをこれから現代語訳で引用してみよう。

2024-04-20 21:34:43
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