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小谷城の防御思想に対する見解

解説用のセルフまとめ。
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さき@滋賀県の城 @saki_Historic

小谷城の防御思想に対する見解の変化について。 9/27に3度目の小谷城訪城を遂げて、初めて大堀切を越えた先と清水谷に足を踏み入れました。それによって色々とこれまでに私が持っていた小谷城に対する評価に変化があったので簡単にまとめます。

2020-09-30 22:09:30
さき@滋賀県の城 @saki_Historic

ポイントは以下の3点です。順番にいきます。 1. どこまでを「小谷城」とするか 2. 浅井氏の居住場所 3. 大堀切の役割

2020-09-30 22:09:42
さき@滋賀県の城 @saki_Historic

1. どこまでを「小谷城」とするか 私の持論として狭義の「小谷城」は出丸から山王丸をピークにして六坊まで連なる山上の城砦群と定義してきました。山上に限ると定義に変化はないのですが、疑問だったのが清水谷は尾根上の城砦群と連携しているのかというところでした。

2020-09-30 22:10:01
さき@滋賀県の城 @saki_Historic

狭義で城を定義する際の私の考えの基本は「防御機構に連続性があるか」というポイントです。出丸から六坊のラインについては今回の訪城で防御機構の連続性を再認識できたので、山上についての考えに変化はありません。では、山上と清水谷に連続性はあるのか。

2020-09-30 22:10:23
さき@滋賀県の城 @saki_Historic

結論を言うと、山上と清水谷に防御機構の連続性があると理解しました。厳密には確認のために歩かなければいけない場所が残っているのですが、清水谷に点在する城館群が山上の城砦群と連携して配置されているものであると考えた次第です。

2020-09-30 22:10:55
さき@滋賀県の城 @saki_Historic

特にポイントになるのが大野木屋敷と三田村屋敷。これは山上にある赤尾屋敷と同じく曲輪のひとつと捉えたほうがよいと考えました。六坊に続く谷筋の道を抑える出丸の役割を持っていると考えます。その他、木村屋敷と磯野屋敷も番所に続く道を抑える役目が伺えます。

2020-09-30 22:11:22
さき@滋賀県の城 @saki_Historic

ただ、それだけでは山上と清水谷に防御機構の連続性があると言うには弱いところがありますが、それを補完するのが京極丸の西下にある曲輪群の存在です。あまり認知されていないのですが京極丸の西下には石垣を伴う曲輪がいくつか存在し、そこに山上と清水谷を繋ぐ役割があると考えます。

2020-09-30 22:12:08
さき@滋賀県の城 @saki_Historic

今回それらの曲輪には未訪ですが、水ノ手から登るルートがあるようなので検討したいと思います。京極丸側から降りることができそうでもあったのですが、今回はそれを含めて登山ルートから大きく外れた曲輪は見送っていました。

2020-09-30 22:12:42
さき@滋賀県の城 @saki_Historic

月所丸には実際に行ってみましたが、そこは連続性のない独立した城砦であると捉えています。大嶽城は未訪であるものの、地形や位置関係、成立の経緯を踏まえて独立した城砦と捉える考えでいます。

2020-09-30 22:13:27
さき@滋賀県の城 @saki_Historic

以上により、私の「小谷城」の定義は出丸から山王丸をピークにして六坊まで連なる山上の城砦群および清水谷に展開された城館群が一体となったものであると改めます。

2020-09-30 22:13:50
さき@滋賀県の城 @saki_Historic

2. 浅井氏の居住場所 これは私の長年の勘違いでした。小谷城は山上に居住の痕跡が確認できることから、最初から山上を居所としていたと認識していました。これは間違った認識でした。本来は清水谷の「御屋敷」を居所としており、織田氏との対立が本格化した後に山上に移ったとするほうが自然です。

2020-09-30 22:15:22
さき@滋賀県の城 @saki_Historic

それまでも政務の機能は山上の大広間にあったと考えています。そこに居所も移動させたものと認識を改めました。この勘違いが起こった理由は清水谷にある「御屋敷」を浅井氏の居所と認識していなかったことにより、非常に無知が恥ずかしい限りです。

2020-09-30 22:16:03
さき@滋賀県の城 @saki_Historic

3. 大堀切の役割 今回、初めて大堀切よりも奥のエリアに足を踏み入れました。私が認識していた大堀切の役割は、築城当時の小谷城の南端であるというものです。大堀切よりも南側は拡張されたエリアであり、いわば小谷古城と小谷新城を分離しているものであるとの考えです。

2020-09-30 22:37:30
さき@滋賀県の城 @saki_Historic

この考えに変わりはありません。何故なら、実際に大堀切を越えてみたことで大堀切の前後で城の構造が大きく変化していることを実感したからです。大堀切より手前は居住性と物見を重視した印象を受けていました。それが前述の勘違いを起こした理由でもあるのですが。

2020-09-30 22:37:44
さき@滋賀県の城 @saki_Historic

大堀切を越えた途端、その性格が大きく変わります。特に中丸の虎口と土塁は小谷城に足を踏み入れて初めて「山城」に来ていることを認識させられるものでした。中丸からが小谷城の城砦部分なのです。その最前線が大堀切であると考えます。

2020-09-30 22:38:06
さき@滋賀県の城 @saki_Historic

小谷城は本来、中丸・京極丸・小丸を中心に山王丸を詰城、六坊を搦手の緩衝地にした構造であったと考えます。そこに政務の機能を山上に移すために大堀切より南側が拡張され、結果として清水谷の城館群との連携が確立したのではないかと推測します。

2020-09-30 22:38:22
さき@滋賀県の城 @saki_Historic

以上になります。前述のとおり、今回の訪城では登山ルートを大きく外れた位置にある曲輪を見送っていたのと、広義の小谷城を構成する大嶽城・福寿丸・山崎丸・焼尾砦・須賀谷砦・田川砦・北野周見砦・北野砦には未訪です。4回目の訪城はいつになるか。

2020-09-30 22:40:32