学校とはどういう所か - 渡邊芳之さん

「学校」とはどういう所か 渡邊芳之 @ynabe39 さんのツイート
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渡邊芳之 @ynabe39

「努力が報われる場所」というのは誰かが意図的に作らなければ存在しない、その代表的なものが「学校」で、「努力」について考えるためには「人類はなぜ学校のような場を作ったのか」を考えないとならない。 @sankakutyuu

2011-12-24 06:24:08
渡邊芳之 @ynabe39

原発事故以降の「江戸時代に戻れ」論と「戻れるわけない」論の対立と、「努力が報われる社会をどう考えるか」というのは、基本的に同じ問題であるように見える。

2011-12-24 06:26:33
渡邊芳之 @ynabe39

「努力が報われる社会」がそもそも「人工物」で、その究極の姿が共産主義であることは昨日島本さんが言ったとおり。しかし「努力が報われる社会」を否定したらわれわれは弱肉強食の世界に戻る。

2011-12-24 06:30:42
渡邊芳之 @ynabe39

子どもたちを育てるため、弱さを持った人が社会参加するための「努力が報われる場所」と、自由や創造力が花開くための「努力ではどうにもならない場所」を社会全体の中でどのように調和させていくかという話なのであって、島本さんが言ってることは悲観的でもなんでもないのだ。

2011-12-24 06:36:13
渡邊芳之 @ynabe39

けっきょく残るのは「暴れん坊将軍」「遠山の金さん」なんですよ。 RT @elephas_Koji: 「努力」というモチーフが消えたジャンプ漫画は天才的気質と潜在能力の覚醒ばかりですし。

2011-12-24 06:45:05
渡邊芳之 @ynabe39

学校とは「やればできる」ことから選ばれた課題を生徒に与え、やり方を教え、やってできたら褒めてやる場所である。

2011-12-24 06:52:33
渡邊芳之 @ynabe39

やったらできることをやって、できたら褒められることで、子どもたちには「自己効力感」や「意欲」が生まれる。これが学校に求められている役割。

2011-12-24 06:56:01
渡邊芳之 @ynabe39

そういう意味では応用行動分析のようなものはすこぶる「学校的」なものである。だから「大人の世界」が根本的なところで行動分析的な思想を受け入れないのは健全なこととも言える。「人間がみんなそんな簡単にいくわけないだろ」ということだ。

2011-12-24 07:00:01
渡邊芳之 @ynabe39

だから大学は小中高とは違うし、彼らは生徒でなく学生と呼ばれるわけです。 RT @sobukawa: その通りだが、それにどっぷり浸かり、そうでないものを忌避しようとする学生が多過ぎ。ついつい腕づく対決をしてしまう。

2011-12-24 07:01:25
渡邊芳之 @ynabe39

「努力が報われる揺りかご」から「努力がそれほど報われない外の世界」に出て行く若者がその境目でしばらく身を置く場所、汽水域としての大学、というのも昨日島本さんが言ったことだ。

2011-12-24 07:04:40
渡邊芳之 @ynabe39

だから大学教員は「ちゃんと出席していたのに出てない人より成績が悪いのはおかしい」などというクレームには毅然と「これからは努力しても結果がでなければダメ」と言わなければならない。

2011-12-24 07:07:58
渡邊芳之 @ynabe39

@hirotakadaikou 学校はそれでいいのです。そうでない世界はすぐ目の前に拡がっているのだから。

2011-12-24 07:08:56
渡邊芳之 @ynabe39

出席回数が規定を越えていればあとは試験の点数だけで評価、欠席の減点などもしない、これが大学設置基準の原則です。 RT @waseda_fablab: 「出席点を加算するのではなく欠席点を減点する」という言い方だったら学生は納得しないですかね?

2011-12-24 07:18:09
渡邊芳之 @ynabe39

そりゃそうです。「やってもできないことを教える学校」というのは原理的に成り立たない。 RT @tomsent: できないことはやる必要ない。ともとれますね。

2011-12-24 07:20:12
渡邊芳之 @ynabe39

8割とか7割とか各大学が学則で定めています。 RT @waseda_fablab: 規定出席回数というのが一応あるんですね。自分自身は引っかかったことがなかったので意識していませんでした

2011-12-24 07:21:09
渡邊芳之 @ynabe39

@hirotakadaikou 過程はともかく結果としてよければそれでよい、というのが大人の世界ですね。

2011-12-24 07:22:01
渡邊芳之 @ynabe39

そこで「大学は学校なのか」という問いも生まれます。まあ法的には明らかに学校なのだけれどそういう意味ではなく。@echstarb

2011-12-24 07:41:09
渡邊芳之 @ynabe39

@hirotakadaikou まあ「大学にいく目的」もいろいろです。そもそも「教員から何かを教わる」ことが大学に行く目的でない人もいるでしょう。

2011-12-24 07:43:58
渡邊芳之 @ynabe39

@echstarb いっぽう教員は学校だと思ってないからギャップが生まれるわけです。

2011-12-24 07:46:34
Takashi Hayashi @tkshhysh

努力が報われるということよりも、一般社会ではインプットとアウトプットとの間に介在するコンティンジェンシーが多く、「学校的」社会はそれを人工的に減らしている、ということなのだと思う。せめて初等教育ではインプットアウトプットの関係は安定的であって欲しい。即ち「画一的」ということだが。

2011-12-24 07:48:32
渡邊芳之 @ynabe39

誤差変数をできるだけ統制してインプットとアウトプットの関係を明確化するという意味では教育や学校というのは実験計画法みたいなものだなあ。

2011-12-24 08:00:21
渡邊芳之 @ynabe39

長い歴史の中で判断されてきているでしょう。学習指導要領はその歴史の産物ですね。「やったらできるはずの事柄のリスト」。RT @tomsent: やってもできないというのはいつ判断されますか?

2011-12-24 08:02:01
Takashi Hayashi @tkshhysh

「市場」に対する本能的恐怖感とでもいうべきものは、赤の他人のランダムな評価に「ランダムなまま」さらされることへの恐怖感だと思うんですよ。これを予め大数法則を使って決定論的な世界に落とし込んでおいてくれよ、と僕みたいな「学校的人間」は思うわけです。@sankakutyuu

2011-12-24 08:04:43
渡邊芳之 @ynabe39

スキナーが「強化と罰によって行動がコントロールされること」を「コンティンジェンシー」と呼んだのはその語の本来的な意味においてなのであって,日本語では「随伴性」と訳されたことでその意味がわかりにくくなっている。

2011-12-24 09:28:08
渡邊芳之 @ynabe39

企業も学校化しているということかもしれません。学校社会。 RT @fudoumitunari: そうか、だから褒めて育てることが企業に求められているのか。

2011-12-24 09:29:51