- HinoYusuke20
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日本は元から、ドゥルーズ=ガタリの論じるような生成論の国なのではと薄々思っていたが、ズバリこの内容が書かれていて「やはりか」となった。
2024-03-28 19:43:59江藤淳のいう「母の喪失」は大正教養主義の敗北のことと、以前ミスターさんが仰っていたけど、合宿を終えた今ならその意味がなんとなくわかる気がする。 江藤の実母が大正教養主義の影響を色濃く受けたそうだが、これとはまた別に。
2024-03-31 16:47:37木登りの理論的な説明は、三昧という語を介すると容易に思われる。 井筒俊彦は「三昧に入ると、いままで硬く固まっていたものの世界が流動的になってくる」といった趣旨のことを述べている。 三昧は、われわれの認識の前提である言語構造が融解され、液状化した状態なのだ。
2024-03-31 17:55:22道元は只管打坐を唱えたが、座禅でなくとも生活における動作の多くは「修行」として捉え直せるだろう。 人間の行動が目的をも捨象して収斂される時、当人は三昧に向けて開かれる可能性を秘めている。
2024-03-31 18:04:58剣道、柔道、書道、華道、茶道、etc… これらの「道」は当人の人格の成長を目指す審美的宗教と捉えられる。 人格の成長はとりあえず目的として据えられるが、「修行」中は意識されない。 人格の成長は事後的に、「修行」という形で待ち続けている当人のもとへ「やってくる」(郡司ペギオ幸夫)。
2024-03-31 18:16:21師匠(@ nobonobotrtr)は木登りを日本的なものとして見ており、「木登り道」のようなものを指向していると語っていた(と僕は記憶している)。その方向性に従って理論化するならば、上記のようなものになるのではなかろうか。
2024-03-31 18:25:29あと、近代を通して「疎外」された、人間のうちの「自然」=「本来性」の回復を目指す運動として捉えるならば、木登りをアンダーグラウンド演劇の近傍に位置するものとして語ることもできるのだろう。
2024-03-31 18:27:58これはとある方の受け売りだけど、伝統の真の力強さは新たに創りあげることができる点にある。 左派のあいだでよく「創られた伝統」と言われるけれど、データ化・修正し、再帰的・漸進的に変化していけるところに強みがあるから、そこに負い目を感じる必要はないと思う。 x.com/nobonobotrtr/s…
2024-03-31 20:34:53正直、間に合うとは思いませんが、今からでも木登を伝統かのように仕立てあげなければならないと思います。 僕は「日本的霊性」を読み切ることさえできなかったレベルの知性だから、木登論を大成することはできないのは目に見えています。
2024-03-31 20:16:15