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法学史。ギター。ドラム入門中。宅録。モモーイ。vulfpeck。SRV。76。研究者未満。
@keihoukikoushi @tedie 瀧川の『学問と世間』に弁護人としての感想が掲載されており、判決の理論面もある程度問題視しています。 dl.ndl.go.jp/pid/1123494/1/…
2024-04-18 13:59:46神戸地裁では傷害致死罪(殺意が争点)、大阪控訴院では殺人罪、大審院では殺人罪(因果関係が争点)という理解でいいでしょうか? x.com/yu_guitarlaw/s…
2024-04-18 15:07:36先週の「虎に翼」の裁判劇の元ネタとされる「チフス菌饅頭事件」の弁護人が瀧川幸辰であったという件に関連して、松尾尊兊『滝川事件』(岩波現代文庫、2005年)や『疾風怒涛——一法律家の生涯 佐伯千仭先生に聞く』(成文堂、2011年)を読んだ時の衝撃は忘れられませんね。
2024-04-24 08:54:33小田中聰樹「瀧川幸辰の刑事訴訟法理論」『刑法理論史の総合的研究』(日本評論社、1994年)618頁が「知識人・大学人・刑法学者としての瀧川」として触れているように、いわゆる第二次瀧川事件がもった意味は今からみても重いといわざるをえないように思われます。
2024-04-24 08:54:33女性刑法学者養成の端緒を生んだ瀧川幸辰
#虎に翼 チフス饅頭事件の弁護人が、当時、瀧川事件で京大から退職し、弁護士を開業していた瀧川幸辰であることは著名である。ここでは、瀧川の弁護方針については触れない(瀧川の弁護方針については、瀧川『学問と世間』所収の「弁護人としての感想(一)(二)」より、伺うことができる。)。
2024-04-24 03:18:36本作では、穂高重親(穂積重遠)が女性法曹養成をけん引している。そして、穂積が生んだ明大女子部から、我が国の最初の女性の民法学者である立石芳枝が誕生した。これに対し、女性の刑法学者の育成のきっかけを生じさせたのは、おそらく瀧川であろう
2024-04-24 03:22:14瀧川自身は女性の社会進出に明大関係者らほど積極的ではなかった。むしろ明治大学女子部の学生の活躍、三淵らの合格にすら彼一流の冷ややかな視線を向けている(瀧川『刑法と社会』所収の「婦人と稀少性価値」)。しかし、特に優秀な女学生に対しては、親しく指導を行っていた。
2024-04-24 03:23:23瀧川は京大以外の大学でも刑法を講じていたが、特に同志社の大学院生、侯玉芝を親しく指導していた。侯玉芝は中国からの留学生だが、極めて高い日本語能力と知力を有し(学生時代、学生の代表として貞明皇后と謁見するほど)、
2024-04-24 03:24:48瀧川のもとでは、瀧川のラジオ放送での刑法講義の書き起こしを担当し、『刑法読本』の成立に大きく貢献した。なお、この本がのちに瀧川事件の際に問題視される本である。
2024-04-24 03:25:48『刑法読本』の特異な点は、巻頭に侯玉芝の写真を掲げているという点でである(なお。国会図書館のデジタルコレクションにある刑法読本からはその写真は削除されている)。
2024-04-24 03:26:34刑法読本は、内容が無政府主義的であるというイチャモンに加えて、このような女学生のグラビアを巻頭に掲げるという特異性が問題視されたという指摘もある。
2024-04-24 03:28:11なお、そのような写真が登載された理由は、瀧川が述べるところによれば、侯玉芝が昭和7年、中国に帰国することになったため、瀧川は前述のような侯玉芝の才能と貢献に感謝し、記念とするために掲げたとされる
2024-04-24 03:29:38さて、戦後、京大に戻った瀧川は、刑法講座に自己の後継者となる研究者を配置したが、その際抜擢されたのは、司法修習を終え、裁判官になったばかりの桂(のちに木村に改姓)静子であった。桂静子は、本邦史上初の国立大法学部の女性教員であった。
2024-04-24 03:30:15当時、瀧川は刑法学会理事長を務めており、最後の弟子として桂がいろいろな場で随時指導していたのだが、それを見ていた慶応大の宮崎澄夫が「慶応も女性教員を養成すべき」と極めて軽いノリで影響を受け、これにより中谷瑾子先生が慶応の刑法教員として抜擢されることになる
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