山崎丞命日語り2012

Twitter新選組の山崎丞命日語り2012
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山崎亟(丞) @Yamazaki_susumu

【告知】 命日である一月十一日 二十時 #山崎丞命日語り を行う。始まりと終わりの話だ。少々 暗くなるやもしれないが これで去ることはない 不安にならないように。 

2012-01-11 18:45:24
山崎亟(丞) @Yamazaki_susumu

…本日は…船の上から話をしよう。ぷろふぃーると最期の話だ。 #山崎丞命日語り

2012-01-11 20:04:26

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監察方山崎丞としての始まりと終わり

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山崎亟(丞) @Yamazaki_susumu

…まずは俺のぷろふぃーるから。 本名を林丞という。父は五郎左衛門 母は君江といい 勝次郎・俺・新次郎の三人兄弟として生まれた。生まれた年は…覚えていない。川村さんは慶応四年に俺について「三十四、五」『新撰組往時事実戦』と書き残しているな…。 #山崎丞命日語り

2012-01-11 20:06:22
山崎亟(丞) @Yamazaki_susumu

…松本良順先生に「隊士中、山崎烝なる者あり。もと医家の子なり。性格厚にして沈黙よく事に堪ゆるあり。」『 蘭疇自伝 』と言われている通り 大坂で針医者をやっていた。 家族は入隊を反対していたな…。俺の商家への往診が一家の収入で有った為と壬生浪士組の評判がどうにも… #山崎丞命日語り

2012-01-11 20:14:05
山崎亟(丞) @Yamazaki_susumu

…大坂で相撲取りと壬生浪士組の乱闘があったが それにより林家での評判はさらに悪化した…。その頃 母はすでに亡くなり 父も少々患っていたように思う。…その父と弟・妻に反対されたが 押しきって入隊した。 #山崎丞命日語り

2012-01-11 20:23:14
山崎亟(丞) @Yamazaki_susumu

三十歳前後であっただろうか…入隊の頃も はっきりとは覚えていないが…文久三年から元治元年の…寒さが次第に緩和してくる頃だったように思う…。 #山崎丞命日語り

2012-01-11 20:29:08
山崎亟(丞) @Yamazaki_susumu

…入隊後は山崎丞・山崎大三郎などの名を使っていた。往診で培った弁は控え 松本先生や八木為三郎さんが言うように隊内では無口に振る舞ったが 次第にそれが俺の性格そのものとなっていった…。 #山崎丞命日語り

2012-01-11 20:38:27
山崎亟(丞) @Yamazaki_susumu

「文筆学才あるをもって諸士調役となる」『新撰組往事実戦譚書』とあるように…俺は往診で出入りしていた大坂の商家と繋がりがあり 土地勘もあった為 …また様々なことの隠れ蓑となりえる病を監視するのに適していることなどから 監察方に任命された。 #山崎丞命日語り

2012-01-11 20:51:23
山崎亟(丞) @Yamazaki_susumu

さて…「始まり」については以上。続いて俺の行動を軸にした「終わり」だ。 #山崎丞命日語り  http://t.co/arB0QViX

2012-01-11 21:18:48
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山崎亟(丞) @Yamazaki_susumu

…慶応三年十二月九日 王政復古の大号令が発表された。それにより旧幕府勢力の俺達は 京から出ることとなる。…十四日に下坂 天満宮に布陣した後 十六日に伏見奉行所に移動する。 #山崎丞命日語り

2012-01-11 21:24:50
山崎亟(丞) @Yamazaki_susumu

…この際 「山崎、吉村、伏見行節相渡す」『金銀出入帳』とあるように…100両を渡され 俺と吉村さんは十五日に一足先に伏見へ入り…地形や本陣をおく場所について偵察した。城南宮や鳥羽離宮・御香宮神社など…方々を歩き回った。 #山崎丞命日語り

2012-01-11 21:32:09
山崎亟(丞) @Yamazaki_susumu

…十八日には所用で京都へ出向いていた局長が伏見へ戻る途中 狙撃され負傷。大坂できちんとした治療を受けたほうが良いのでは…という俺の進言で 二十日に局長と沖田さんが養生の為 淀川を船で下り大坂へ移った。 #山崎丞命日語り

2012-01-11 21:34:20
山崎亟(丞) @Yamazaki_susumu

『金銀出入帳』に50両の出金記録と共に「先生下坂に付き、山崎へ相渡す」とあり…これを護衛したのが俺だな。…二人が養生する大坂町奉行所の離れ屋敷に一月一日まで付き添い 二日に伏見に向けて出発した… #山崎丞命日語り

2012-01-11 21:43:30
山崎亟(丞) @Yamazaki_susumu

…局長と凄腕の剣士…二人の離脱は…今後の新撰組を思うと不安を拭えなかった…。回復を祈る気持ちであったな…。 #山崎丞命日語り

2012-01-11 21:52:25
山崎亟(丞) @Yamazaki_susumu

そして慶応四年一月三日 鳥羽伏見の戦いを迎えた。三日は伏見 五日に淀 六日に橋本で戦い 大坂へ敗走。…戦は悲惨なものだった。洋式武装の西軍に対し こちらは鎧兜に刀 僅かな大砲…野戦病院を設け治療に当たったが…きりがなかった。 #山崎丞命日語り

2012-01-11 21:53:50
山崎亟(丞) @Yamazaki_susumu

…そして遂に俺も負傷してしまう。この辺りの俺について横倉さんは「淀にて討死」『日記和』 島田さんは「橋本にて討死」『京都より会津迄人数』とし なにか…勝手に殺されているが 俺は重傷ながら大坂まで退却した。 #山崎丞命日語り

2012-01-11 21:55:00
山崎亟(丞) @Yamazaki_susumu

…平成の世のように容易に連絡が取れない為 途中で別れた隊士が 山崎はそのまま亡くなっただろうと思うほど 俺は重傷であった。 #山崎丞命日語り

2012-01-11 21:59:48
山崎亟(丞) @Yamazaki_susumu

…川村さんが「山崎は重傷にて大坂八軒家、京屋宅にてしかと見認め候。遺骸は大坂にあらんか」『新撰組往事実戦譚書』と書き残し 重傷の俺が大坂の京屋忠兵衛宅へ運びこまれる様子は…川村さんに目撃されていたようだ…。遺骸云々とあるが…この時も俺はまだ生きている…。 #山崎丞命日語り

2012-01-11 22:12:41
山崎亟(丞) @Yamazaki_susumu

…その後 九日に負傷していない永倉さんや島田さんが乗り込んだ順動丸が出港。十二日に品川へ到着。…俺が局長・沖田さんと共に運び込まれた負傷者用の富士山丸は 十日に天保山沖を出港し その日は兵庫沖に停泊した。 #山崎丞命日語り

2012-01-11 22:14:39
山崎亟(丞) @Yamazaki_susumu

…充分な治療もできない為 傷は悪化するばかりで…発熱し朦朧としていた。そしてついに…一月十一日に紀州沖を航海中 記憶がぷっつり途切れた。 #山崎丞命日語り

2012-01-11 22:18:43
山崎亟(丞) @Yamazaki_susumu

…朦朧とした意識の中で…最期に見たものは何だったか 薄暗い船の天井か 妻の顔…それとも副長と共に戦い続ける夢か。波の音だけ鮮明だった。 #山崎丞命日語り http://t.co/cjbjvPy9

2012-01-11 22:23:07
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