連載小説 「深夜の電話」 藤若亜子 @akof

クロージングポスト連載(平日1ポスト連載)第二弾 深夜に電話が鳴る。それをうける小学生の少年。 ──────────────(設定は1970年代前半、黒電話しかない時代です)
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藤若亜子 @akof

直面したマトモでない事態に混乱し、少年は暫し上の空になっていた。「出してよぅ。薬出してってばぁ。」という声がして少年は我に返る。情けない声だ。鼻をすする音もする。泣いているようだ。(今度は泣き落とし……?)喚き、恫喝し、暴れ、泣き、相手の態度はくるくる目まぐるしく変化する。

2010-06-14 18:04:12
藤若亜子 @akof

尾上少年はようやく気付いた。この相手に律儀に付き合うことに何の意味も無いのだ。薬を処方して欲しいという用件は分かり切っているし、それに対して自分には何もできはしない。そして周りの大人達はこうした事態を無責任に容認している。受話器を耳から離し、軽い徒労感を感じて少年は天井を仰いだ。

2010-06-15 17:47:53
藤若亜子 @akof

────玄関脇の電話台の傍の床で、横になっていた少年は目を覚ました。辺りはもう明るくなている。握りしめたままの受話器にはっと気づいて、少年はそれを耳をあててみるが「ツー、ツー、」という無機的な音が鳴っているだけだった。……続く

2010-06-16 18:28:53
藤若亜子 @akof

電話が鳴った。父は夕食後に同僚からの電話を受け慌ただしく出ていって不在だ。少年が電話をとる。「はい、尾上です」「河馬多警察署ですが……」(なんだ警察か)「あ……あの、えと、尾上先生は?」幼い声の子供が出たのが予想外だったのか反応に戸惑いがある。「今不在ですが、何か御用でしょうか」

2010-06-17 18:55:24
藤若亜子 @akof

「え、えーと、あの、さるが、その、……先生のサル。猿、わかります?尾上先生の猿なんですが?」全く要領の得ない警察署員の話ぶりに尾上少年は苦笑した。これではどちらが子供なのだか分からない。だが、この相手の言おうとしてることが何なのか、少年は知っていた。

2010-06-18 18:07:51
藤若亜子 @akof

「先生の猿」とは、父が実験用に飼育しているニホンザルのことだ。少年は父に連れられて、その猿を見たことがあった。看板も掲げられず、ひっそりと誰にも見られる事なく入っていける、陰鬱とした、精神科専用の裏門がある。その奥の病棟横の傾きかけた平屋の木造の実験棟に、3匹の猿が飼われている。

2010-06-21 18:08:10
藤若亜子 @akof

1匹ずつ太い鉄格子の檻に入れられた猿は、いつも神経質で、極めつきに凶暴だった。格子に獅噛ついて暴れ、牙を剥いて吠え、格子の間から精一杯に腕を伸ばして掴みかかろうとし、少年に向かって糞を投げつけた。少年はそれを見るのも恐ろしく、檻の向かい側のコンクリートの壁に張り付くのだった。

2010-06-22 17:24:41
藤若亜子 @akof

その獰猛な猿の一匹が、山の方に逃げてしまったという連絡が病院から入って、今夜父は出かけて行った。「……逃げたので、先生に連絡を!その、あの、どうしても……」予想通りの事を署員が電話の向こうで喚いているらしい。少年に伝言を命じさえすれば、自分の責任は無くなると思っているのだろう。

2010-06-23 18:11:38
藤若亜子 @akof

「はぁ」と少年は生返事を繰り返していた。というのも、今夜はもう伝言の必要は無かったからだ。父達は既に逃げた猿を捕獲していた。父の先輩の医師が、追いつめた猿を、格闘の末取り押さえたらしい。その際、抵抗する猿は、手の甲から掌まで牙が突き抜けるほど激しく噛みついたということだった。

2010-06-24 17:38:20
藤若亜子 @akof

電話口からの警察署員の声が次第にわんわんと強くなってきた。伝言リレーの「責任」バトンを、何が何でも押し付けようとジタバタ藻掻いているのだ。耳から受話器を離して、少年はそれをじっと見つめた。受話器から漏れ聞こえる怒声が、どす黒い汚物のようだった。

2010-06-25 17:27:53
藤若亜子 @akof

垂れ流れてくるものが、檻の格子の合間から伸びる腕や、投げつけられる糞尿かのように脳裏に映る。そしてその時、胸にわだかっていたものが、突然ふっと解けた。

2010-06-28 17:36:43
藤若亜子 @akof

「医者になるのは止めよう。うん、ならない。絶対に」尾崎少年は、黒い受話器を両手で水平に持って、ゆっくり、しかし決然と、それを降ろした。────“チン”     (完)

2010-06-29 19:10:50