人類学におけるドグマ感覚の今
- nirvanaheim
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あんま寝てないけど、なんかまた寝る気にならないのでルロワ・グーランの『先史時代の宗教と芸術』を開いていました。
2011-07-28 05:54:36先史学とくくれるようなジャンルの話はさておいて( #ちょっとやめないか )、ふと「文化人類学畑の人々の間では実際のところ『未開社会でフィールドワークして原始社会の様相を探る』的なドグマはまだ(感覚的意味でも)維持されているのだろうか」というようなことが気になりました。
2011-07-28 05:58:02外野から色々勝手に言うことはできるし言ったりしてますけど、実際のプロパーな人々の感覚というのは相当程度の交流持ってないとよく分からないですよね。
2011-07-28 05:59:00@nirvanaheim おはでする。生態人類学ならまだ(慎重ながら)あるかもしれませんが、文化人類学ではほぼないんじゃないかと思いますよ。
2011-07-28 06:14:08@shibufusky ありがとうございます。単なる印象論ですけれど、まだまだ「アフリカ/オセアニアの○○部族のところにフィールドワークに行って博論書きます」みたいな方が多くいらっしゃるように感じられるんです。あの辺にどの程度の積極的な意義が認知されてるんだろう、って思いまして。
2011-07-28 06:24:01@nirvanaheim や、私も研究大会の発表題目一覧などを見た感じの印象ですが、以前ほど多くないかと。あるいは、昔から一定程度いたとしても、所謂「未開社会」とは違う領域をフィールドにする研究者が激増した、のかも。
2011-07-28 06:27:41@nirvanaheim あとは、都市から離れた部族研究に行くとしても、そこから人類史の過去の姿を取りだそうとする姿勢自体がかなり少なくなってると思います。
2011-07-28 06:29:32@shibufusky あるいは、学統の揺籃期にはアクセスできたような「未開社会」が、「近代文明」との接続を済ませた地域ばかりになっていった結果として激減し、今では最早そのような意味でフィールドとできる地域が少なくなった、ということもあるかもしれませんねw
2011-07-28 07:10:40@shibufusky 感覚的に、とつけましたのは「理念として掲げられることは最早なくても、素朴にはそういうことも言えるだろう程度に漠然と思われてる」程度の話を想定していたのですが、そういう部族研究みたいなものは、「伝統/慣習だから」程度の理由が主になっているのかもしれませんね。
2011-07-28 07:14:13@nirvanaheim というより、初期の人類学は初期の人類学で、植民地期に既に土地制度改革などを被っていた農村や部族の状況を、恰も純粋に原始的な農村の姿なり何なりに錯覚してることがあった、とも言われてますね。
2011-07-28 07:15:37@shibufusky そういうポストコロニアル的な視点変化・反省の方が全体的な動きとしては大きいのだろうとは思っています。
2011-07-28 07:17:47@nirvanaheim とはいえ、インドでも実際トライブ研究は着手すること自体が難しいですからね・・・。フィールドが都市にある場合でも、農村研究からの示唆は大きかったりしますよ。
2011-07-28 07:23:09@shibufusky なるほど。感じ入ります。 /アクセスしやすくフィードバックが得やすいところに研究人口も集まりやすい、みたいなところもありますし、非都市域の研究に人を集める傾斜もあった方がいいのかもしれませんね。
2011-07-28 07:29:53