@jai_an 氏が語る現在の学校教育と若者の問題点
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大学の規制緩和処置(中曽根臨教審以降)とも言える大綱化とともに、ポケベル、Windows95、携帯電話、iモード携帯、blog、mixi、twitter、facebookと、情報社会(ネットワーク社会)の個人化がどんどん加速化していった。
2012-03-07 00:42:24これらのメディアに共通していることは、情報の受発信が「いつでもどこでも」化すること。この「いつでもどこでも」化こそがinput-outputの時間を短くしている。「いつでもどこでも」化は、むき出しの個人化とむき出しの内面化を両方引き連れてくる。
2012-03-07 00:43:101つは、他の人が他の部屋で連絡代理する事が無くなることによって、いつでもどこでも個人自身と直接に連絡を取り合えることが出来るようになったということ。たとえば、家庭内の電話の置き場が、玄関→リビング→各部屋=各個人(携帯電話)となって、外部と個人がむき出しに対峙するようになった。
2012-03-07 00:44:29恋人同士も、リビングで介在するおとうさんの壁を越える電話連絡が必要だったが(それには真=誠の愛が必要だったが)、いまでは直接、彼女に連絡が取れる。彼女の側からすれば、すべてのことを自分で判断せざるを得ない〈主体〉を強要される時代に突入している。
2012-03-07 00:44:51個人がむき出しに外界(社会)に晒されると、〈主体〉が強要され、内面が逆に肥大する。学生や子供(学校教育体系の中にある子供達)は、学校という教育を経ることなく〈主体〉を強要されることになる。そうやって、学校教育は生涯学習(〈教育〉ではなくて〈学習〉)の一部となった(中曽根臨教...
2012-03-07 00:45:43この主体は反応の主体である。個人がむき出しになって、「いつでもどこでも」連絡が取れる体制になると、無反応も反応の一つとなり、それ自体がメッセージになる。このソーシャルメディアにおいて育った子供・学生達は、自己存在とは反応のことであると思っているに違いない。
2012-03-07 00:46:36「我反応する、故に我有り」がソーシャルメディア時代の若者の格率であるわけだ。「引きこもり」も過剰に他者を意識した結果であって、他者を排除しているわけではない。目立ち派と引きこもり派との対立ではない。
2012-03-07 00:47:06学校教育も、したがって、抽象的な学びの主体を前提にしたカリキュラムの体系になってしまっている。毎回毎回の科目がリセットされ続ける選択科目主義である。
2012-03-07 00:48:11リセットされるたびに学びも主体も煽られ、個性的な学びも煽られるが、しかし、一回毎に終わる選択授業であるために、能力が積み上がらない(ストックにならない)。
2012-03-07 00:48:46能力が積み上がらないばかりではなく、学生の多様化(能力格差)に対応できない。基礎学力のばらつきを収拾するストーリー性の高いカリキュラムをつくることが出来ないからだ。
2012-03-07 00:49:12つまり文科省の言う「学生の多様化」に対応するということと選択科目制とはむしろ背反しているのだ。選択科目制は一科目毎に学生の多様化格差が拡大するばかりなのである。
2012-03-07 00:50:44(承前)…個性(掛け替えのない個性)とは無縁な個性が横行している。そもそも短期で形成されるものを個性や特色とは呼ばない。就活本で得られる個性なら、それを読めばすぐに得られるものなのだから、それを〈個性〉とは言わない。
2012-03-07 01:05:31企業の圧迫面接には二種類ある。一つは、被面接者が何を言っても無反応を装う面接。もう一つは、考える暇を与えない矢継ぎ早な試問を浴びせる面接。両者に共通するのは、output主義(コミュニケーションノウハウ論)をまずは蹴散らすことだ。
2012-03-07 01:15:24(承前)…これに耐えるには、息の長い滞留を経た自分の〈個性〉や〈特長〉を整理するしかない。〈性格〉について自己言及する場合も、〈得意〉〈特技〉について自己言及する場合も、ながーい時間(環境)によって形成された自己特質を整理することが必要になってくる。
2012-03-07 01:26:06いる、いる。 RT @fukushimakokugo: 「批判を素直に受け止めた」ということを免罪符にし、批判されたことがら自体を変えていこうとしない人がいる。「ぼく、十分に叱られたんだよ。だから、直さなくていいよね」と言っているようにすら聞こえる。
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