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筒井語り 二日目
こんにちは、お小さい順慶様(笑
《5.織田への帰順と筒井家中》
@busyo_nari 重「11月1日、殿は明智光秀殿と佐久間信盛殿の斡旋をもってして信長公に臣従し、その支援を得ることで大和における所領を保ち、松永久秀とも束の間の和議を結ばれました。」
2012-03-09 20:57:20@busyo_nari重「しかし、1572年、松永久秀は反信長の態度をますます悪化させ、つかの間の和睦も破綻することになります。」
2012-03-09 20:58:11@busyo_nari重「臣従後は長篠の戦いにおいては信長公に鉄砲隊50人を供出し、8月の越前一向一揆攻略にも5000の兵を率い参戦、またその際信長公の臣従に際しその証として母、芳秀尼様(大方殿)と家臣2人を人質として出されております」藤「(ノ);~・`(。ヽ)バイバイスル」
2012-03-09 20:59:06@busyo_nari重「ちなみに、筒井三家老の一人森好之殿…散々タメ口をきいているので、この口調気持ち悪いのだが・・・あの方の奥方は先代様の妹君、つまりは殿から見れば義理の叔父にあたるので、よくよく考えてみれば立場的には凄い方です;…」藤「(。´∀`)ヨシユキー」
2012-03-09 21:00:05@busyo_nari重「で、この方の子息、好高殿が俺の娘の夫で、そしてなんだかんだあって島原の乱につながっていくのですがそれは、別の話という事で、変な縁と言うか…´`」
2012-03-09 21:01:03<整理:筒井家>
г────¬
芳秀尼様=順昭様 妹御=好之殿 右近殿
│ │ │
順慶様 好高殿=娘御
ちなみに左近の娘は、右近殿のご子息・松倉重政殿に嫁してございます。
…島原の乱との縁は、以前軽くお話致しましたな。
ここでは”筒井三老が娘息子らを娶わせっこ!”と申すに留めさせて頂きまする笑
《6.弾正殿の最期、その後の大和》
@busyo_nari重「殿が信長公より、大和守護に任じられて後、1577年松永が信長公に対し反旗を翻すと、信貴山城の戦いが勃発、殿は城攻めの先鋒を務めておられます10月10日ついに城は陥落、松永久秀の遺骸は生涯敵同士だった殿が回収し達磨寺に手厚く葬られました。」
2012-03-09 21:04:17@busyo_nari 重「それから時が少し経ち1580年、居城を筒井城から大和郡山城へ移転する計画を立てていたおり、信長より本城とする城、つまり大和郡山城以外の城の破却を促す通達が寄せられます。」
2012-03-09 21:06:43@busyo_nari重「筒井城はじめ支城を破却し、築城した大和郡山城に移られました、筒井の城から大和郡山城へ拠点を移した根拠として、筒井城が低地にあって、水害の影響を被りやすかったという問題が有った、と云う事ではないかと」
2012-03-09 21:07:37 \♪さよならぼーくたちーのー筒井城ー 弾正とバトった城ー/
(右`' □ ')(順`-□-)(左`・□・メ)(好`・ω・)ノ
@busyo_nari重「同年、大和一帯に差出検地を実施されます。これに伴い岡弥二郎、高田当次郎、戒重ら等、かつて松永軍に追従していた筒井家配下の方々が、信長公に一度離反した咎で光秀殿等の主導で処断されました
2012-03-09 21:09:36@busyo_nari重「\殿ゆがみねぇ/そして2年後、かねてより確執があった吐田遠秀を闇討ちしています」藤「Σ(°◇°*)」
2012-03-09 21:10:36@busyo_nari 重「この後しばらくの間は平和な日々が続いておりました、しかし、ここである事件が…と、少し呼ばれたので、続きはまた明日…」 藤「ヾ(´・◇・`。*)ノシバイバイスルー」
2012-03-09 21:14:35筒井語り 三日目
《7.例のあの事件》
「1582年6月光秀殿が信長公を突如襲った、本能寺の変が起こりました。殿は一族、重臣を召集して評定を行われます、明智とは縁戚関係にもあったため、明智方からは事件の後即座に味方になるように使者が送られてきました」藤勝「(((((。ノ□;`))))(←びっくりした」
2012-03-10 22:05:27