井伊直政と島津忠恒~実は、直政と豊久って関が原で出会っていないんです~

直政さんが、忠恒さんとの関係を話しています。 途中、豊久さん乱入。 薩摩隼人との約束を迫ってきますから、守ってね?
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井伊万千代直政 @1561_naomasa

話反れました。そしてその年の十月、毛利との和議がほぼ纏まりますと、俺は山口直友殿を島津の窓口として講和交渉を開始致します。#直政と忠恒

2012-03-19 21:14:41
井伊万千代直政 @1561_naomasa

合戦の後、島津の家臣で落ち延びていた本田助之丞殿、新納旅庵、他数名を捕らえておりましたが、彼等から聴取を取った所、島津は徳川への敵対心は一切なかったと言う意思を確認します。そして十月十日、本田殿に俺の書状を持参させ薩摩へと帰国させます。#直政と忠恒

2012-03-19 21:21:53
井伊万千代直政 @1561_naomasa

その書状の内容は「島津家の現在の最高責任者であり実力者である島津義久殿が上洛をし、殿に謁見することを勧め、更には俺がその間を取り次ぐ」事を約束していました。#直政と忠恒

2012-03-19 21:31:37
井伊万千代直政 @1561_naomasa

しかし返事が十一月四日付でありながら俺の下に届いたのは遙かに遅く、俺は同月十三日に前に送った書状が届いているかを確認し上洛を促す書状を再度送ります。それから漸く島津から届いた書状は十二月を過ぎてからで、同月十三日に俺と、山口殿からニ名の家臣を島津へ使者として送ります。#直政と忠恒

2012-03-19 21:35:42
井伊万千代直政 @1561_naomasa

俺は今後の事を考え、早く島津殿に殿へ謁見して交渉を早く進めたかった為、書状と使者を送る事を何度も繰り返しますが、島津は回答を何度も引き伸ばし、なんとこのような繰り返しを半年近く行います。多分この時、俺と義久殿の間で、忠恒殿は色々奔走されていたかと思います。#直政と忠恒

2012-03-19 21:36:44
井伊万千代直政 @1561_naomasa

そしてその後何度も交渉が行われたそうですが、その時既に俺の身体は限界になっており政務を引退、佐和山にて療養を始めます。#直政と忠恒

2012-03-19 21:38:14
井伊万千代直政 @1561_naomasa

任された仕事でしたので、せめて目処が付くまでとは思ったのですが、言うことが利かない身体ではどうしようもなく。その期の交渉を引き継いでくださったのが本多正信殿です。#直政と忠恒

2012-03-19 21:41:00
井伊万千代直政 @1561_naomasa

その後の事は、俺自身は知りません。この時、伊達政宗公や縁の方々が色々見舞いの品や、書簡を送って下さっているそうです。その中には、忠恒殿の名前もあったそうです。が、俺は残念ながら今の世になって知りました。結局、俺は最期の仕事を中途半端な状態でこの世を去ってしまいました。#直政と忠恒

2012-03-19 21:42:51
井伊万千代直政 @1561_naomasa

そして、徳川と島津との講和ですが、殿が求めておられた義久殿は結局上洛することなく、殿とに謁見したのは、なんと義久殿の代わりに上洛された忠恒殿で、俺がこの世を去ってから半年以上後の慶長七年十二月のことだったそうです。#直政と忠恒

2012-03-19 21:43:34
井伊万千代直政 @1561_naomasa

長くなりますので、日数や内容の件について、書状のやり取りの部分は端折らせて頂きました。短い説明でしたので、俺と忠恒殿との関係が今ひとつ判り辛くなってしまいましたが、徳川と島津の講和は、俺だけでなく忠恒殿がいなければ進まなかったと言うことです。#直政と忠恒

2012-03-19 21:44:33
井伊万千代直政 @1561_naomasa

拙い説明で大変申し訳ありません。 ご清聴ありがとうございました。#直政と忠恒

2012-03-19 21:45:41