rsmoon さんが語る「諏訪の古代史」

これはじっくり読んでみたいと思ったのでまとめました。 rsmoonさんは、博学で音楽がお好きでお料理が上手というとても魅力的な男性です。 そして無類のクジラ好き。(食べる方)
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S.Takei @rsmoon

諏訪では前方後円墳が1基しか発掘されてい。発掘が進んでいないのではなくほとんどないのが現実で、前方後円墳が多い隣の飯田・下伊那地方と対極にある。何を意味しているかと言えば、朝鮮半島由来とされる、馬と馬具を操る技術を当時集中的に手にしていた大和王権との関係の密度の違いだと思う。

2012-03-16 23:39:17
S.Takei @rsmoon

飯田・下伊那地方は大和王権と密接な関係があるが、諏訪では関係が薄かった。諏訪が未開の地なら話は別だが、早くから切り開かれ文化程度の高い地であったことと、当時の支配形態の祭政一致から、ミチャグチ神と祭主の洩矢一族の力で、中央の力を受け入れなくても成り立っていたことを意味している。

2012-03-16 23:45:15
S.Takei @rsmoon

というかむしろ大和政権の影響力を阻めるくらいの力を持ち、中央の支配力が及ばなかったのではないかと考えている。

2012-03-16 23:47:08
S.Takei @rsmoon

諏訪の守矢神長官家は、一子相伝で行われた祈祷や神長官として受け継がなければならない数々の事柄が、深夜火のない祈祷殿で口伝により伝えられたという。その中には、古代の諏訪の姿も含まれていたと思う。そうした口伝による一子相伝は実に判っているだけでも76代に及ぶ。

2012-03-16 23:53:02
S.Takei @rsmoon

しかし明治の国家神道政策で、諏訪のミチャグジ神を含む日本中の土着の信仰が邪宗として排斥され、建御名方神(出雲神)を主神とする諏訪大社も一神社に降格し、中央から神官が派遣され、守矢神長官はその職を剥奪された。これは日本の歴史と土着信仰への最大の侮辱と排斥と不利益を与えた愚策だと思う

2012-03-16 23:56:32
S.Takei @rsmoon

しかし守矢神長官家の歴史は、神代から続いていると言われる出雲大社宮司、出雲国造家である千家84代に続く。この歴史的事実は変えようもなく、このことを考えると守矢神長家もまた神代からの歴史が伝えられた一族だと推察できる。

2012-03-16 23:57:58
S.Takei @rsmoon

神長家裏古墳と言われている守矢家の庭にある古墳は、守矢家の伝承によれば物部守屋の次男である武麻呂の墳墓と言われている。物部守屋が蘇我馬子に敗れた際に、武麻呂は今の守屋山に逃れたと言われ、武麻呂の子孫が守矢一族ということになっている。

2012-03-17 00:05:09
S.Takei @rsmoon

杖突峠を下る途中に守屋神社があるが、守屋山の山頂にある祠を奥宮とすれば、拝殿ということになる。今は見る影もない小さな社殿だが、床下には竪穴式の石窟があって、昔は石棒が収められていた。これはミチャグジ信仰の強い影響を受けていることが解る。

2012-03-17 00:06:05
S.Takei @rsmoon

おそらく、守矢家に物部の由来はない。まず諏訪には洩矢神あり。縄文の自然崇拝を色濃く残すミチャグチ神を祀り、政(まつりごと)として治めた洩矢一族。やがて、滅びゆく出雲の高貴な一族を迎え入れ、その高貴性を利用して、自らは自由に生き神様を操れる神長官として実質的にこの地を治めてきた。

2012-03-17 00:09:01
S.Takei @rsmoon

しかしやがて天津系の一族は、出雲を中心とする西日本の土着の豪族を従えて、大和政権を作る。東日本でも勢力を伸ばし始め、ここ諏訪にもその手が伸びてきた。 おそらくその頃敗れはしたが、古代最大の軍事氏族の物部氏。その名声は中央でも地方でも大きな意味を持っている。

2012-03-17 00:11:11
S.Takei @rsmoon

そこで丁未の乱で死んだか行方不明になった武麻呂が諏訪に落ちたという話を作り、中央の大和政権に対抗しうる血統として創作した、というのが私の推論。なぜ、武麻呂が落ちたのに守屋山なのか。守屋神社なのか。それよりも遥か以前から、諏訪では洩矢山であったと考えるのが自然だと思わう。

2012-03-17 00:13:01
S.Takei @rsmoon

諏訪湖を一望に見渡せる、自然の恵み豊かな守屋山がある諏訪湖の南の山々が、狩猟採取民族だった洩矢一族と諏訪の民にどれほど貴い存在であったか想像できる。

2012-03-17 00:14:25
S.Takei @rsmoon

【昨夜に続き諏訪の古代について考えてみる】1)有史以前の諏訪湖は、八ヶ岳西麓の奥深くまで広がる巨大湖だった。その巨大湖が、フォッサマグナが活動し活断層が動き、現在の釜口水門付近が崩壊し、天竜川に逆流した。その結果、標高900mあった海面が800mまでたちまち下がった。

2012-03-17 23:17:02
S.Takei @rsmoon

2)諏訪地方の古代遺跡の分布を見ると、縄文時代の遺跡は、八ヶ岳西麓の標高900mから1000mの上位段丘に多く見られる。現在の茅野市、原村、富士見町辺り。そこに広がる照葉樹林が狩猟採取で糧を得ていた縄文人が生活できるベストな場所だった。

2012-03-17 23:18:42
S.Takei @rsmoon

3)湖面が標高800mに下がるとやがて沖積低地の湿地帯が生まれる。その辺りの古代遺跡を見ると弥生時代の遺跡が分布する。米作環境が生まれ、弥生人が移動してきた。

2012-03-17 23:20:01
S.Takei @rsmoon

4)そこで長く諏訪に縄文の色彩が濃い信仰が継続されたことを考えると、稲作技術を持った弥生人が、諏訪に入ってからしばらくの間、これはどのくらいの単位で言っていいか解らないが、相当の期間、縄文人と弥生人の住み分けが行われていたのではないかと思う。

2012-03-17 23:21:01
S.Takei @rsmoon

5)相当な期間というのは、他の地域では見られないほど長くという感じにすぎないが、相当期間、他の地域では、見られないほど縄文人と弥生人たちとの融合が諏訪では行われず、縄文の色彩が濃い生活と文化が育まれ縄文の自然信仰が行われていた。

2012-03-17 23:22:15
S.Takei @rsmoon

6)弥生人と融合し、稲作を中心とする生活が始まり盛んになっても、縄文の魂は失われることなく持続した。その中心に在ったのが、ミチャグジ信仰であり洩矢一族だった。かなり大雑把な解釈だけど。

2012-03-17 23:23:13
S.Takei @rsmoon

7)この地にやってきた出雲の弥生人のリーダーを諏訪の人たちが、現人神と認め祀ったことが、この地の縄文人と弥生人の融合の象徴でしょう。もちろんそれが手打ち式で、そこから融合が始まったわけではなく、

2012-03-17 23:24:07
S.Takei @rsmoon

8)長い年月に間には争いごとも、婚姻による同化も、実に様々なプラスとマイナスの行為を繰り返しながら、少しずつ融け合い、現人神として祀ってもいいですよ。ただし、実効的な支配は元から住んでいたわしらがするから。という受諾が緩やかに形成されたと推測する。

2012-03-17 23:25:01
S.Takei @rsmoon

9)大和政権に強要され仕方なく祀ったという消極的な受入れもあった(史実としてあった)。古代における出雲族は、滅びたとはいえ大和朝廷も無視できない存在であったことは間違いなく、むしろ積極的に融合することが、諏訪にとってもプラスになるという判断も当然あった。

2012-03-17 23:26:26
S.Takei @rsmoon

10)どこにでも保守的な人たちもいれば革新的な人たちもいる。それは古代の諏訪でも例外なく、保守と革新のバランスの中で形成された。他の地域と異なる長い期間の住み分けについても、保守と革新のバランスの中で出来上がった形態も、諏訪4社を見れば明らになる。

2012-03-17 23:27:36
S.Takei @rsmoon

11)古代の諏訪の人たちにとって、現在の守屋山は生活の糧の宝庫だった。必然的に信仰の対象になる。しかし御神体という考えとは少し異なる。大いなる恵みを授けられると同時に脅威も下されるという畏怖の存在でまたミチャグジ神とも異なる。

2012-03-17 23:28:53
S.Takei @rsmoon

12)そのことは、諏訪大社の記録を探っても、守屋山に関する神事はひとつもなく、御神体であるという記録もない。あの山は、諏訪の人たちの信仰の対象ではあるが、ミチャグジ神とステージが異なる対象。

2012-03-17 23:29:39
S.Takei @rsmoon

13)私の推察では、諏訪の支配者だった洩矢一族の直轄地だった。だから古代より洩矢山と呼ばれた。物部守屋の息子、武麻呂が落ち、守矢家の先祖に奉った創作が成り立つ要素があった。洩矢の山は守屋山となり、やがて杖突峠の下りに守屋神社が祀られ、山頂は守屋神社の奥宮となった。

2012-03-17 23:30:34